|
HOME|ブログ本館|日本文化|東京を描く|英文学|フランス文学|宮沢賢治|プロフィール|BBS |
ふかえりと空気さなぎ:村上春樹「1Q84」を読む |
村上春樹の小説「1Q84」は、ふかえりという謎めいた少女が生み出した「空気さなぎ」という物語を、主人公である天吾が文学作品として読みやすく改作することから始まる。その作品の内容は、はじめのうちは読者に明示されないが、単なる架空の物語ではなく現実世界との接点を持っているらしいことが暗示される。やがて、1Q84という世界は、この空気さなぎに描かれた世界と異ならないのだということが開示される。つまり主人公たちはいつの間にか、空気さなぎで描かれた世界の中に迷い込んでしまったというわけなのである。 その世界では月が二つ浮かんでいる。ひとつは我々が眺め馴れている黄色い月、もう一つは寒々しい色合いの緑色の月だ。二つの月は母と子のように寄り添っている。実際に、この一対の月は母子なのだ。大きな月がマザ、小さな月がドウタだ。 ふかえりは、世界に月がふたつあらわれるに至ったそもそもの起源を、「空気さなぎ」の中で語ったのだった。 ふかえりは両親とともに山梨県のコロニーで集団生活をしていたが、10歳のあるとき世話をしていた山羊を死なせた罰として狭い空間にとじ込められた。何日か後、山羊の口が開いてそこから小人たちが現れる。ふかえりは彼らをリトル・ピープルと呼ぶ。リトル・ピープルは、自分たちを再び世界によみがえらせてくれたといって、ふかえりに感謝する。そして空気の中から糸を紡ぎだし、それを材料にして繭をつくる。この繭からは、いずれ一人の少女が生まれてくるだろう。その少女とはふかえりの分身だ。というよりふかえりの心の影だとリトル・ピープルはいう。 リトル・ピープルはまた、その分身をドウタと呼び、ふかえりのことをマザと呼んだ。リトル・ピープルはこのドウタに呼びかけ、ドウタを通して現実世界をコントロールするであろう。ではマザであるふかえり自身はどうなるのか、とりあえずはなんらの不都合なく生きていけるが、ドウタが死ねば、自分の心の影も失うことになるだろう、と不可解な予言をする。 ドウタは、月が二つになったことを合図に、生まれ出てくるだろう。さなぎが孵化するように。しかしドウタが生まれる前に、ふかえりはコロニーを脱出する。リトル・ピープルの言い分に危険なものを感じ、自分が彼らの勢力を相殺する役目を果たそうと、子どもながらに決心したのだ。 17歳になったふかえりは、空気さなぎの物語を語り、それを天吾の手によって小説の形に仕上げ、それを世間に発表させ、ベスト・セラーとして多くの人に読んでもらう。こうすることでリトル・ピープルの力を削ごうとしたのだ。というのも、リトル・ピープルは秘儀としてしか顕現できず、秘密が暴露されると、人に呼びかける力を失うらしいのだ。 それではその秘儀とは何であったのか。リトル・ピープルが巫女であるドウタを通じて自分の意思を実現しようとすることだ。ドウタは霊媒として働き、その言葉をリーダーが実現するという構図だ。リーダーとは、ふかえりの実の父親だった。彼は娘のおかげで霊的な力を持つようになり、それによってカルト集団の強力なリーダーになったのだ。 ところがふかえりの意思によって、リトル・ピープルはこの秘儀を妨げられる。そのことによってリーダーも宗教的な力を失う。力を失ったリーダーは生きる気力を失う。リトル・ピープルはふかえりに替るマザ・ドウタの組み合わせと新しいリーダーを求めるようになるだろう。 こうしてみれば、ふかえりこそ1Q84という世界の創造者なのだということがわかる。創造者にして、しかも現にこの世界の主催者でもある。この世界はふかえりの意思にもとづいて動いている。彼女はこの世界の内部にあっては、分身のドウタを通じて神の神託を伝える巫女であり、この世界の外部にあっては、この世界を動かしている神そのものなのだ。つまり神としての彼女自身が分身としてのドウタを通じて、自らの意思を実現させているのだ。リトル・ピープルも結局は彼女の意思の顕現の別の現れに過ぎない。 いまやふかえりは、二人の主人公の運命の糸を握っている。青豆には、力を失って生きる気力のなくなったリーダー〜それは自分の父親だが〜を殺害させ、天吾には自分の意思を形に現すものとして、それぞれ役割を果たさせるのだ。しかも二人を結びつけるのもふかえりだ。 青豆がリーダーを殺害した嵐の夜、ふかえりは天吾の腹の上にまたがって、天吾のペニスを自分のヴァギナに導き入れる。そんなふかえりを天吾は呆然としてみる。彼女の陰部は毛が生えておらず、まだ未熟なままだ。しかしふかえりはその未熟なヴァギナで天吾を自分の中に導き入れる。彼女の表情には恍惚とした様子がある。天吾は身体が硬直して動けないままに、ふかえりの中で射精する、それも夥しい量の精液を。その瞬間青豆は処女懐胎するのだ。 ふかえりは天吾とのあいだで性交を行うことで、青豆を懐胎させた。彼女の天吾との性交はだから、自分の肉体を用いて行った自分自身のための行為であったとともに、自分の身体を通じて二人の男女を結びつけたという点では、秘儀的な行為でもあったわけだ。 ふかえりは物語の終り近くで、しずかに姿を消してしまう。彼女がいなくなる直接のきっかけは、牛河が現れて自分たちを見張っていると気づいたことだ。牛河に見られることを彼女は望まない。それ故、天吾に書置きを残して天吾のアパートを去る。去った後、彼女は二度と小説の中に登場しない。彼女は天吾の前から去っただけではなく、読者の視線からも永遠に去ってしまうのだ。 だがそのことは、小説の初めのところで予言されていたことだ。ドウタが死ぬとマザは心の影を失う。ふかえりは自分のドウタを失った。つまり心の影を失ったわけだ。だから彼女が物語の世界から去ることは必然的なことだったのだ。 ふかえりがいなくなった後、青豆は天吾と出会い、彼等は手を携えて1984年の世界に戻ってくる。何故それが可能になったのか。恐らくそこには、ふかえりが絡んでいる。彼女が消えることによって、1Q84の世界は主催者を失ったのだ。だからその世界は、青豆と天吾とを閉じ込めておくのに必要なエネルギーのようなものも失った。彼らが強く意思すれば、その世界から脱出することもできるようになったのだ。 以上、ラフな筋書きで整理してみると、複雑な構成をもっているように見えるこの物語も、意外と単純な骨格に基礎づけられていることが見えてくる。それは、一人の少女の心の中で繰り広げられていたものが、この世界に黙示録的な形であらわれたものだ、どうもそういえそうなのである。 |
|