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村上春樹「1Q84」の世界


村上春樹の小説の題名「1Q84」からオーウェルの小説「1984年」を想起したのは筆者だけではなかっただろう。小説の中で作者自身がそのことをほのめかしているから、あながち的外れな受け取り方ではない。なにしろオーウェルの「1984年」というタイトルは、20世紀に生きた人類全員にとって共通の強迫観念といってもよかった。それが21世紀に生きている人類の一員である筆者などに、いまだ強烈なインパクトとなって残っている所以だ。

「1984年」という小説は、オーウェルが冷戦の時代にあって、将来のありうべき世界としてのディストピアについて描いたものだった。しかし村上春樹の小説「1Q84」は将来あるいは未来についての物語ではない。それは現在あるもう一つの世界、いうなればパラレルワールドで起こる出来事についての物語である。

村上春樹はこれまでにも、現実の世界と並行する別の次元の世界について書くことが好きな作家だった。「ねじまき鳥クロニクル」はそうした世界についてのもっとも成功した物語だ。だが「1Q84」で描かれるもう一つの世界は、「ねじまき鳥」のもう一つの世界とはかなり違う。

「ねじまき鳥」で出てくるもう一つの世界は、現実の世界とは次元の違う世界だ。だからこの現実の世界とは全く異なった世界だ。両者には共通するところがなにもない。人はこの世界ともう一つの世界と、この二つの世界に同時にいることはできない。もう一つの世界に行くためには、秘密の通路を通って、この世界からあちらの世界へとワープしなければならない。そして、人はワープしてもう一つに世界へ行っても、再びこちらの世界に戻ってこれる。二つの世界は双方向的な関係にあるのだ。

「ねじまき鳥」で展開されていたもうひとつの世界は、「ナルニア国物語」や「不思議の国のアリス」に出てくるおとぎの世界と通底しあうところがある。子供たちは、箪笥の奥やウサギ穴といった秘密の場所を通じて、あちらの世界に行き、そこでひと波乱の冒険を経験したのち、秘密の場所を通じてまた元の世界に戻ってくるのだ。この二つの世界はパラレルワールドには違いないけれども、あちらの世界はこちらの世界とは似ても似つかない、全く別の世界だ。

「1Q84」で展開されるパラレルワールドは、そこで生きている人間にとっては、こちらの世界と外見上はなんら異なるところがない。せいぜい、月が一つではなく、二つ見えるくらいの相違だ。あちらの世界と云うものが、そこでは別世界として現前しないゆえに、あちらとこちらという対立関係が生じないのだ。人はこちらの世界にいながらにして、いつの間にかあちらの世界に紛れ込んでしまう。

では物語の主人公はどうやって自分があちら側に迷い込んだと認識するようになるのか。主人公たちは、世界の日常の延長である毎日を生きているうちに、知らぬうちにあちら側の世界に迷い込むのだが、しかしアリスやナルニアの少年たちとは違って、こちら側からあちら側への移行の儀式は行われない。こちら側で生じていることがらが、いつの時点からか、違った色彩を帯び、異なった意味作用を持つようになる。その象徴は夜空に上る双子の月だ。その世界では、いつも見慣れた黄色い月とならんで、緑色の寒々とした小さな月が浮かんでいる。しかしそれ以外に、この新しい世界が元の世界と異なったものであることを伺わせる明示的な根拠は示されない。

「1Q84」というあちら側の世界がこちら側の世界に生きていた人間に現前したのは、まず青豆という奇妙な名を持った女主人公に対してだった。彼女は渋滞した高速道路から一般道路へ抜けようとして非常階段をおりた。その時に彼女が下りたのは、高速道路の単なる下などではなく、あちら側の世界であったというわけだ。

高速道路を脱出しながら青豆はいう。「私は移動する、ゆえに私はある」と。青豆は移動することによって、端的に存在するのみにとどまらず、あちら側の世界でも存在することになるのだ。

では主人公たちは、この、あちら側の世界である「1Q84」の世界で、どんな冒険をすることになるのか。ここがこの小説の最大の眼目だ。

この小説の主人公は、女主人公の青豆と、男主人公の天吾と、このふたりだ。彼らのうち、最初にあちら側にやってきて、そこを「1Q84」の世界と名付けたのは青豆の方だ。彼女が今生きているのは1984年、だが迷い込んだ新しい世界はどうもそことは違う、そういう感覚から「1Q84」の世界と名付けたわけだ。天吾のほうはその世界を「猫の町」と呼んだ。月が二つある世界が、つい最近読んだ「猫の町」とよく似ていると思ったからだ。

彼等はそれぞれ自分が名付けた新しい世界で、必死になって探し物をするようになる。その探し物とは、失った愛を取り戻すことだった。彼らは10歳の時に、何かは知らないけれど運命のような力によって深く結びつけられた。その時から離れがたく結ばれてしまったはずなのに、離れ離れになってしまった。でもそれは、許容できないことなのだ。許容してしまえば自分の生きる意味が失われてしまうのだ。だから生きていくためには、この失われた愛を取り戻さねばならない。二人は再び結び合わされねばならない。

つまり小説の核となる部分は男女の恋愛なのだ。これはSF小説のスタイルを借りた深刻な恋愛物語なのだ。

失われた愛を取り戻す、このテーマは「国境の南、太陽の西」でも取り上げられていた。小学生時代に仲のよかった少年少女が大人になって再会する、するとそこにすさまじい火花が起こるように激しい恋心が再燃する。主人公の男は何もかもを犠牲にして、一旦失われた愛を取り戻そうとする。その恋愛感情は怨念とも言うべきものだ。人間はそうした怨念の前ではもろい存在なのだ。

この小説でも、青豆も天吾もまさに怨念につかれたように、失われた愛の対象を求め続ける。すさまじいまでの怨念だ。人間とはこんなにも強く他の人間を愛することができる、そこに読者は強い衝撃を感ずるだろう。

この求め会う一対の男女の周辺で、それこそ様々なことが起こる。とにかく単行本で1500ページ以上にもなる長大な小説だ。単純なテーマでは結構がもたない。様々なテーマが共存し、絡み合い、縺れ合いながら展開していく。

そうしたサブテーマの中で最も重いテーマは、カルト宗教だ。村上はおそらく「オウム真理教」を意識しながら、カルト宗教の持っている不気味さを抉り出すとともに、「あさま山荘事件」を思わせるエピソードを加えることで、人間のもつ暴力性や非合理性について疑問を投げかけたりしているのだと思う。

そもそもこの世界に「1Q84」という異次元的なあり方を持ち込んだのは、このカルト宗教とかかわりの深い人物だと、暗示されている。月がふたつあったり、空気さなぎが現れたりするのは、カルト宗教のリーダーの娘「ふかえり」の想像力を通じてだ。そしてその娘の想像力の成果を父親たるカルト宗教のリーダーは十分に理解している。だからこそ、リーダーは青豆との取引を提案するのだ。

それは青豆の愛している天吾の命と引き換えに、青豆の命を教団のために捧げるという内容だった。

だが青豆は自分自身の力によって、この取引に勝った。青豆は教団からの追及を巧みにかわして、天吾を自分の手元に取り返し、あまつさえあちら側の世界からこちら側の世界へと奇跡的なカムバックを果たすのだ。

それは青豆の深い愛がなさしめたことだといえる。愛が運命に打ち勝つ。人の意思が世界の摂理を克服するのだ。

再び結びついた青豆と天吾のふたりは、こちら側の世界で安心して生き続けていけるに違いない。二人はこちら側に戻ってきたその夜に、赤坂のホテルに部屋を取り、そこで心行くまでセックスをするのだ。

それにしても「1Q84」と言うタイトルをオーウェルの「1984年」と結びつけるというのは、日本語ならではの遊びの精神のあらわれだろう。村上春樹にはつねに、こうした遊びの精神を大事にするところがある。


ふかえりと空気さなぎ:村上春樹「1Q84」

青豆の処女懐胎:村上春樹「1Q84

青豆の女友達:村上春樹「1Q84」

猫の町:村上春樹「1Q84」

親子とは:村上春樹「1Q84」

奇妙な探偵牛河:村上春樹「1Q84」

死に方は選べる:村上春樹「1Q84」

ヤナーチェクのシンフォニエッタ:村上春樹「1Q84

大麻を吸う:村上春樹「1Q84」

さきがけとあけぼの:村上春樹「1Q84

物語の仕掛けと語り口:村上春樹「1Q84





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