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村上春樹には、書き物のなかで自分の趣味を披露するのを楽しむ傾向が強い。彼の趣味といえば音楽を聞くことと身体運動をすることらしく、この二つの分野について、小説やエッセーの中でことこまかく、それこそマニアックなまでに拘っている。「騎士団長殺し」も例外ではないようだ。音楽へのこだわりは相変わらずだし、身体運動についても、登場人物の一人である免色を通じて、細かく言及している。 この小説が従来と異なるのは、車の型式へのこだわりが尋常でないことだ。ほとんどの作家は、小説の中で車を登場させるときには、せいぜいセダンとクーペの差異とか、あるいはカラーについて言及するのがせきのやまで、どのメーカーのどの型式かなどについては、無視するのが普通だ。ところが村上は、この小説のなかで、誰がどんなメーカーのどんな型式の車に乗っていたか、ことこまかく書くのである。それを読まされると、ある種の偏執を感じさせられる。 免色という不思議な男は、四台の英国車を持っている。ジャガーを二台(そのうちの一台はEタイプらしい)とレンジローパー、それに加えてミニ・クーパーだ。これらについて村上は、主人公の私に、「ミニはBMWが作っているし、ジャガーはたしかインドの企業に買収されたんじゃないかな。どちらも正確には英国車とは呼べないような気がする」と言わせている。車についてかなりマニアックでないと、こんなことを言う人間はいないだろう。ともあれこの四台の車の中で免色が好んで乗っているのはジャガーの銀色のスポーツ・クーペだった。その車について私は、自分が乗っているカローラ・ワゴンのすくなくとも二十倍の値段はするだろうと言っているほか、ことにつけて批評を加えているが、筆者のように車に関心のないものには、なぜそんなに車の細部に拘るのか、よくわからない。 主人公の私は、カローラ・ワゴンの中古車を買う前には、プジョー205ハッチバックというものに乗っていた。私はこの車に乗って、東北から北海道にかけて周遊していたのだ。その私にスタヂオ付きの家を貸してくれた雨田継彦は、四角い箱のような形をしたヴォルヴォに乗っている。彼はこの車が気に入っていて、もう十分もとをとったにもかかわらず、他の車に乗り換える気がないのだ。人をそこまで虜にする車がどういうものか、これも車に関心のない筆者にはわからない。 秋川家の二人の女性が私のところまで乗ってくる車はトヨタのプリウスだ。これは音のしない車として紹介されている。ジャガーのクーペが重厚な音を立てるのと比較して、プリウスはほとんど音を立てない。重厚といえば、免色から派遣された使者が乗ってきた車は、日産のインフィニティだった。これは霊柩車のように重厚な形をしたリムジンだった。なお、音についていえば、プジョー205は、老人のかすれた咳のような音をたてたと私は言う。 私が東北の町で見かけた謎の男は、スバル・フォレスターに乗っていた。私がいま付き合っている人妻は、いつも赤いミニに乗って私の住んでいる家にやってくる。 こういうわけで、この小説の中の登場人物はいずれも、なにがしら特徴的な車とセットになって出てくるのである。その車の特徴を、村上は嬉々として書いているようなのだが、それは上述したように、車に感心を持たない人の耳にはあまり意味のある言葉としては聞こえないようだ。同時代の人間でもそうなのだから、未来の世代の人間がこうした文章を読むと、どのように感じるか、興味深いところだ。村上はとりあえず同時代人に向かって語りかけているのだと思うが、現代のようにすさまじい変化に洗われている世界では、近い未来でさえ、今とは全く違う様相を呈していないとも限らない。たとえ百年未満のオーダーの未来でも、いま存在している車は一つとして生き残っていないという事態も考えられる。というよりか、車の概念そのものが変ってしまっている可能性が高い、車というものは、二十世紀から二十一世紀の始めにかけて、人類が移動の手段として用いていた歴史的な乗り物だくらいに受け取られている可能性が高い。もしそうだとしたら、未来の読者がこの村上の車についての微細な表現を読んだとして、果たしてなにがしかの共感を覚えるだろうか。 車に比べれば、音楽はずっと寿命が長いと思うし、とりわけクラシック音楽などは百年後でもいまと変らず聞かれていると思うが、音楽の中には、百年後でも聞かれているかどうか保証のないようなものもあるだろう。村上はそうしたかなりローカルな音楽にも趣味のこだわりを見せている。たとえば、私が人妻のガールフレンドからセックスを誘われる場面がある。その場面で人妻は、車の中でセックスしたいと言い、そのさいに「左手で乳房をもみながら、右手でクリトリスを触ってほしい」とねだるのだが、それにたいして私は、「右足は何をすればいいのかな? カーステレオの調整くらいはできそうだけど。音楽はトニー・ベネットでかまわないかな?」と言うのである。トニー・ベネットがどういう音楽なのか、同時代人の筆者にもわからない。まして百年後の読者には全くなんのことか見当もつかないだろう。 これは極端な例であって、村上がこの小説のなかで言及する音楽には、百年後の読者にもわかるだろうというようなものが多い。この小説の中で村上が繰り返し言及しているのはリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」だが、この曲ならおそらく百年後まで残っているだろう。それはよいとして、村上は演奏者にも過度のこだわりを見せている。彼が強く勧めるのは、ゲオルク・ショルティが指揮した四枚組のLPボックスで、オーケストラはウィーン・フィル、歌手はレジーヌ・クレスパンとイヴォンヌ・ミントンというのであるが、これも同時代人で知っている人は、よほどの音楽通に限られると思うし、まして百年後にそれが残っているかどうかわからない。そういうものに村上が過度のこだわりを見せているように見えるのは、ちょっとした驚きである。 音楽のからみで人の名前が出てきたが、村上は古い映画俳優の名前も出している。騎士団長の風貌を、アメリカの古いギャング映画に出てきた俳優エドワード・G・ロビンソンに喩えているのだが、この俳優なら筆者もよく知っている。だが、同時代の若い人達のほとんどは知らないのではないか。 エドワード・G・ロビンソンに喩えられた騎士団長は、その男のことなら自分も知っているという。彼はそれのみならず、セロニアス・モンクのことも知っていた。村上の小説に大事な役柄で出てくるキャラクターは、それくらいのことは知っているのだ。それのみではない、騎士団長は、私と人妻とがベッドの上で繰りひろげている行為のことも知っているという。「我々がベッドの上で盛んに繰り広げていること・・・彼女の言を借りるなら『口にするのがはばかられるようなこと』だ」。それを知っているというのである。騎士団長にとっては、「セックスだろうが、ラヂオ体操だろうが、煙突掃除だろうが、みんな同じように見える」のである。 |
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