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村上春樹のトランスジェンダー観:「海辺のカフカ」から


村上春樹の小説「海辺のカフカ」には、トランスジェンダーの人物が出てくる。女性として生まれてきて、男性として振舞うようになった「大島さん」だ。だが大島さんは、普通に見られるトランスジェンダーとはちょっと異なった雰囲気を持っている。というより、トランスジェンダーとしては、かなりあいまいなところがある。

女性が男性に向かって性差を乗り越えようとすると、その人は意識的に男性であろうとするのが普通ではないか。ところが大島さんは、言葉使いも女性的だし、セックスの面でも男性に惹かれるという。ただ体つきだけは、女性的なふくよかさに欠けている人として描かれている。

この大島さんを作者は、はじめからトランスジェンダーとして読者の前に提示しているわけではない。第19章で、甲村図書館に変なフェミニストたちが訪ねてきて、図書館の性差別を槍玉に挙げたとき、大島さんは初めて自分がトランスジェンダーであることを宣言する。

「僕は女だ」と大島さんは言う。
「つまらない冗談はよしてください」背の低いほうの女性がひと呼吸おいてからそういう。・・・・
「僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながらゲイです。ヴァギナは一度も使ったことがなくて、性行為には肛門を使います。クリトリスは感じるけど、乳首はあまり感じない。生理もない。さて僕は何を差別しているんだろう。どなたか教えてくれますか」

女性でありながらゲイとは、ずいぶんと混乱した概念ではなかろうか。大島さんは、女性でありながら男性として振る舞い、なおかつ男性としての資格でほかの男性とセックスするというのだ。それもヴァギナではなく、肛門を使って。

こんなトランスジェンダーの人物像が、現実にも存在しえるのかどうか、筆者にはよくわからない。ただ、村上はこうした矛盾を意識的に使っているフシもある。彼は、「ノルウェイの森」で登場させたレイコさんのような女性を、レズビアンとしては非常に中途半端に描き、主人公の僕ともセックスをさせていた。そうした曖昧さが、トランスジェンダーの描写にも付きまとっている。つまり、大島さんは中途半端なトランスジェンダーといえるわけなのだ。

中途半端なトランスジェンダーとは、いいかえれば両性具有ということだろう。トランスジェンダーと両性具有の違うところは、一方が自分の生来の性を否定して他の性に同一化しようとするのに対して、他方は自分の中に二つの性の共存を許すことにある。それはまた、子どもであることとつながっている。僕が子どもであることから脱しようとしているのに対して、大島さんはいつまでも子どもでありたがっている、そういえるのではないか。

大島さんはまた、自分が中途半端なトランスジェンダーとして世間の常識からかけ離れていることで差別を受けるのは、ある程度まで仕方がないと納得している。世の中には彼がもっと我慢できないものがある、と彼は言う。

「僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。・・・僕が我慢できないのはそういううつろな人間たちだ。」大島さんにはこういうエキセントリックできわどいところもある。

こうしたきわどいところをのぞけば、大島さんは非常に饒舌な人として描かれている。彼は常に思考し、それを言葉にして表明する。どんなことがらについても、こうした省察を加えないではすまない性分のようだ。

そんな大島さんは、僕の格好の話し相手になる。ぼくもまた常に思索し、それを言葉にする省察好きな少年なのだ。

こんな二人があるとき面白い対話をする。

「カッサンドラ?」と僕は尋ねる。
「ギリシャ悲劇だ。カッサンドラは予言をする女なんだ。トロイの王女だ。彼女は神殿の巫女になり、アポロンによって運命を予知する能力を与えられる。彼女はその返礼としてアポロンと肉体関係を結ぶことを強要されるがそれを拒否し、アポロンは腹をたてて彼女に呪いをかける。ギリシャの神様たちは、宗教的というよりむしろ神話的なんだ。つまり彼らは人間と同じような精神的な欠陥を持っている。癇癪持ちだったり、好色だったり、嫉妬深かったり、忘れっぽかったりする。」

ここで大島さんが言及している神話的な世界と、そこでの予言は、僕が受けた預言と響きあうところがある。その預言は父親を殺し、母親と交わるという内容からして、呪いでもある。その呪いはどこからやってくるのか。少年である僕にはぜひ知りたいところだ。

大島さんはそこまでは明示的にはいってくれない。だがそれがギリシャ神話の世界を動かしている人間臭い精神的な欠陥と無関係ではないと暗示してくれる。そこで少年は重ねて聞く。

「大島さんには預言する能力があるんですか」
「ない」と彼は言う。「幸か不幸か、僕にはそんな能力はない。僕がもし不吉なことばかり預言するように聞こえるとすれば、それは僕が常識に富んだリアリストであるからだ。僕は一般論で演繹的にものをいう。するとそれはとりもなおさず不吉な預言に聞こえるようになる。どうしてかといえば、僕らの周りにある現実とは不吉な預言の実現の集積でしかないからだ」

演繹的にものをいうとは、すでに知られていること以外は話題にしないということだ。世界には新しいもの、理解できないことは、なにもない。運命でさえ、実現されたときにはすでに知られているのであり、預言とは運命が実現されるであろうということを明言することに過ぎない。

だから僕の受けた預言を解釈して、僕の運命の中身を分析して欲しい、などとは少年は言わなかった。

大島さんのほうも、進んで少年の運命を読み解くことはしなかった。そのかわり年上の庇護者となって、常に少年の行く手を見守ってくれた。だが少年が自分の壮大な運命が実現されていくのを見ながら、大人へと成長していくにつれて、大島さんの果たすべき役割は次第になくなっていく。

彼・そして・あるいは・彼女は、いつの間にか物語の進行から消えてしまうのだ。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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