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鳥たちのタイトル:村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 |
村上春樹の長編小説「ねじまき鳥クロニクル」は全三巻からなり、第一巻が「泥棒カササギ」、第二巻が「予言する鳥」、第三巻が「鳥刺し男」というタイトルを付され、全体のタイトルとして「ねじまき鳥クロニクル」を用いている。いづれも鳥にちなんだ命名である。 ねじまき鳥は科学的な根拠を持った名称ではない。それはある日主人公の家の庭でギイイイイッという規則的な声で鳴いていたのが、まるでねじを巻く音のように聞こえたので、主人公の妻がねじまき鳥と名づけたのに過ぎない。 だが主人公にはこの鳥が、単にねじのような音をたてて鳴くにとどまらず、実際に世界のねじを巻いて、主人公を囲む日常世界全体を動かしているようにも受けとれたのだ。 後ほどになって、近隣に住む少女から自分のあだ名を教えて欲しいといわれて、主人公は自分をねじまき鳥と呼んで欲しいと答える。そのときに主人公の頭に浮かんだ考えは、自分はもしかして自分でねじを巻くことによって、自分自身を動かしているのかもしれない、つまり自分の原因は自分自身にあると思ったのかもしれない。もしそうならねじまき鳥と云う名が相応しい。 題名を巡るこのプロブレマティークは最初のうちは漠然として不明瞭なままだが、物語の進行にしたがってしだいに明瞭になっていくだろう。 ここで個々の巻のタイトルについて簡単な考察を加えておこう。 まず第一巻のタイトル「泥棒カササギ」だ。これはロッシーニのオペラのタイトルだ。そのオペラの序曲のメロディを、主人公の僕はいつも口笛で吹いている。それは無意識に近い行為で、出てくるメロディもあいまいなままだ。そこを少女の笠原メイがとがめて、あなたはもしかしておカマじゃないのかと問う。おカマは口笛がへたくそだという俗信を引合いに出してだ。 主人公は違うと答える。だが、自分がおカマではないにしても、まともな人間でないことも認めざるを得ない。つまり「泥棒カササギ」は非「まとも」性のシンボルなのだ。 第三巻になると、異次元空間に出没するホテルのボーイがやはりこの「泥棒カササギ」のメロディを口笛で吹く。彼は実在の人間ではなく非実在的な人間だから、「泥棒カササギ」のメロディは非日常性を歌っていることになる。最初はあいまいであった「泥棒カササギ」のイメージは、主人公と主人公を取り囲む世界の非日常性を象徴するものとして明確な形をとったわけだ。 第二巻のタイトル「予言する鳥」はシューマンの組曲「森の情景」の第七曲のタイトルだ。主人公の僕は、妻が他の男とはげしく交わっているところを空想しながら、その曲を聞くのだ。 「でもクミコは僕の知らない誰かと、想像もつかないくらい激しく交わった。そしてクミコは僕とのセックスでは得たことのない快感をそこに見出すことができたという。彼女はおそらくその男と交わりながら隣の部屋にまで聞こえそうな大きな声をあげ、ベッドを揺するように身もだえしたのだろう。おそらく僕に対してはしないようなこともその男には進んでしたのだろう・・・僕はクミコがその男の体の下で腰をくねらせたり、脚を上げたり、相手の背中に爪を立てたり、シーツの上によだれを垂らしたりしているところを想像した。森の中に予言をする不思議な鳥がいて、シューマンはその情景を幻想的に描いているのだとそのアナウンサーは説明した」 ここではシューマンの曲の幻想的な雰囲気が主人公の空想をいやがおうでも高める働きをしている。主人公は自分が求めている妻が他の男の体と絡み合いながら快楽に身もだえする光景を幻想の中で見ることによって、自分のその幻想に現実性の重みを付与しようとしているかのようなのだ。そうすることで、自分の妻を求めての探索行にも、いくばくかの根拠があることを納得しようとするかのように。 第三巻のタイトル「鳥刺し男」はモーツアルトの戯曲「魔笛」に出てくるキャラクター・パパゲーノの事を指す。パパゲーノは遠くの城に閉じ込められた姫君を救い出すために、王子やパパゲーナとともに冒険の旅に出る。この小説の主人公僕は、パパゲーノと違ってひとりぼっちではあるが、連れ去られた妻を取り戻す旅に出たことに関しては、パパゲーノの行為と同じことをしている。 僕から妻を求めての旅について聞かされたナツメグはこういうのだ。 「最後には王子様はお姫様を手に入れ、パパゲーノはパパゲーナを手に入れ、悪人たちは地獄に落ちるわけだけれど・・・あなたには今のところ鳥刺し男もいないし、魔法の笛も鐘もない」 こうしてみてくると、この小説の中で用いられている鳥のイメージは、いずれも失われた妻とそれを取り戻そうとする主人公のあえぎのようなものをシンボライズしていることがわかる。 そしてすべての鳥のイメージを包括するものとしてのねじまき鳥のイメージは、小説の最後に近い部分で、明瞭な形をとるようになる。 |
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