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村上春樹の小説「風の歌を聴け」を読む |
村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」は、デレク・ハートフィールドという謎の作家を紹介することから始まる。 「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。ほとんど全部、というべきかもしれない。・・・彼は文章を武器として戦うことができる数少ない非凡な作家のひとりであった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、そういった彼の同時代人の作家に伍しても、ハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う。」 村上春樹はヘミングウェイやフィッツジェラルドなどの、いわゆるロスト・ジェネレーションの作家たちに親近感を抱いている人だから、ハートフィールドという作家もその延長線上にある小説家なのだろうと、読者は感じることだろう。しかもこの作家は、同世代の作家たちと比較して、いっそう変わった性格も持っていたらしい。なにしろ 「1936年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りたのだ。」 こんなハートフィールドに、村上自身がいかに大きな影響を受けたか、あとがきの中でもわざわざ強調している。 「もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんか書かなかったろう、とまでいうつもりはない。けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。」 これは、フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の日本語訳のあとがきの中でも、フィッツジェラルドについて書いている言葉と同じだ。そこからして読者は、このハートフィールドという人物を、村上春樹に大きな影響を与えた実在の作家だったと勘違いしてしまうだろう。だがこれは、村上がでっちあげた架空の人物なのである。 こんなフレームアップからも察せられるように、この小説は徹底した遊びの精神の産物であり、ウソと誇張と欺瞞に満ちている。 いやいや、だいたい小説というものは、遊び以外の何者でもないさ、という至極当然の反論も成り立ちうる。しかし、この小説は、同じ遊びでも、全く何の足しにもならない遊び、読んだ後に何も残さないような、無益な遊びに終始している。読者はこれを読んだからといって、パチンコで儲けた後のような爽快感も残らないし、生理的必要を満たしたときの開放感も得られない、ただ時間を無駄につぶしたという喪失感があるだけだ。 だいたい主人公からして、人間的な魅力をいささかも感じさせない、どこにでもころがっていそうなつまらない人間だ、この主人公は学生ということになっており、東京の大学に籍を置いているが、夏休みの間に親の家に戻ってきている、そのわずか半月ばかりの間の出来事を、脈絡もなく書いてあるに過ぎない。 主人公のほかに出てくる人物としては、鼠とあだ名された男、指が4本しかない女の子、それに主人公がよく行くバーのバーテン、この三人だけだ。 鼠は小説を書いていることになっているが、主人公はその才能を評価しているわけでもない。ただ彼の小説にはセックス・シーンが出てこないことに感心しているだけだ。 指のない女の子は、ふとしたきっかけで知り合い、同じベッドで寝たりするまでになるが、セックスするわけでもない、そのうちあいまいなままに別れてしまう。 バーテンのジェイは中国人らしく、主に米兵を相手にバーをやっている。主人公たちは、そこを気晴らしの場所として使っているわけだ。そこの主人ジェイは中国人だからだろうか、妙に女性的な日本語を使う。 こうした登場人物の間には、たいした事件は起こらない。彼らはただしゃべり続けることにエネルギーを燃やしているだけだ。しゃべることが生きることそのものであるかのように。 こんなわけだから、読者はこの小説を読むことで、物語が進行していく場面に立ち会うわけでもなく、男女の愛の現場を目撃するわけでもない、ただ彼らが交わす意味のない会話に付き合わされるだけである。 だがこの「だけである」ことが、この小説が日本の文学史上に持った、かけがえのないとりえだったともいえるのである、そう感じたのは筆者だけではあるまい。 実際こんなタイプの小説は、村上春樹以前の日本には存在しなかった。日本の伝統的な小説は、「だけである」ではなく「こうでもある」を追求してきたわけだから、こんな作品は空虚以外の何者でもないと、感じられたのも無理はない。 ところで筆者の読後感としていえることのひとつは、この小説が青春の真っただ中にある青年を主人公にしているという点で、青春小説のジャンルに含めてもよいかというと、そうでもないということだ。主人公は、たしかに年齢的には若いのだが、その若さが、青春のあのめくるめくような実在感と結びついているかというと、そうではない。 主人公はむしろ、年齢を超越しているという点で、老人臭ささえ感じさせるのだ。青年を主人公にした小説が、老人臭さに溢れているなんて、逆説以外の何物でもなかろう。 この作品が芥川賞の選考からもれたのも、この小説の持つ、そうしたメチャクチャなところが、古い感覚にしばられたままの、いわゆる文壇の長老たちの感性を越えていたことを証明している。 だが、それはそれで、よかったと言えなくもない。とにかく不思議な小説とはいえる。 |
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