村上春樹を読む
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内田樹「村上春樹にご用心」を読む


内田樹氏は、「風の歌を聴け」が出たときからの村上ファンで、その後一貫して村上春樹を評価する論陣を張ってきた。川本三郎氏が、「風の音を聴け」と「1973年のピンボール」を絶賛しながら、「羊を巡る冒険」あたりからついていけなくなったらしいのに対して、内田氏はますます村上の評価を強めた。村上が日本の文壇社会の中でずっと無視されてきたことを考えれば、筋金入りの村上理解者だということができよう。

日本の文壇はなぜ、村上を嫌うのだろう。その訳が分からないし、第一村上を批判している人の文章を読んでも、支離滅裂なことしか書かれていない。こう内田氏は、日本の文壇の支離滅裂さと不可解さを嘆く。そうした支離滅裂な村上批判の代表は、蓮見重彦氏のものである。蓮見氏は村上を評して、次のように罵倒した。

「村上春樹作品は結婚詐欺だ・・・村上春樹を読むな」

これに対して内田氏は、「そもそもある作家を名指しして、こいつの本は読むな、というのは批評家の態度として、よろしくないと思う」という。そして「まあ、いいから騙されたと思って読んで御覧なさい。わたしのいうとおりだから」というのが筋じゃないか、といっている。

読んだことのない読者に向かって、この作家は読むに値しない作品しか書かないから読まないほうがいい、と断定するのは、たしかにフェアではない。実際に読んでみて、わたしの批判が正しいかどうか、判断してもらいたい、というほうが、筋が通っている。

そこで内田氏は、こんなあてこすりを言う。「蓮見は村上を罵倒する前に、どうして<表層批評宣言>が世界各国で翻訳されて、世界各国から続々と<蓮見フォロアー>が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか」

ところで、村上が世界中の読者に読まれている理由はなんだろう。それは少なくとも、日本というローカルなものに根差したローカルな文学性の故ではないだろう。つまり、世界中どの国のひとびとにとっても、これは共感できるという普遍的なものを村上が差し出しているからではないか。

その普遍的なものの中でも重要なものは欠落である、と内田氏はいう。「私たちが世界のすべてのひとびとと<共有>しているのは、<共有されているもの>ではなく、実は<共に欠いているもの>である」

「私たちが共に欠いているもの」とは何か。「それは<存在しないもの>であるにもかかわらず、私たち生者の振る舞いや判断にひとつひとつ深くかかわってくるもの、端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである」と氏はいう。

ここで、氏の得意の領分らしいものとの関わりが出てくる。氏は、レヴィナスの日本への紹介者であるが、そのレヴィナスは、フッサールの現象学とハイデッガーの存在論を手掛かりにして、ユニークな「他者」概念を展開したらしい(らしい、というのは、筆者はまだレヴィナスを読んだことがないので)。

レヴィナスの言う他者とは、死者のことである。死者とは、存在はしないけれど、私たち生者に影響を与える存在者である。存在は存在者ではない、存在を存在者としてとらえることはできない、存在者としてとらえられた存在は無である。以後、ハイデッガーのいう「存在」を「死者」と、フッサールの言う「現象学」を「幽霊学」と、それぞれ読み替えても支障はない、と氏は持論を展開する。

このあたりはちょっと難しすぎて、読者の中にはついていけない人も多かろうというものだ。そこで氏は、村上作品を読み解くキーワードとして、別の言葉を持ち出す。「邪悪さ」と「無意味さ」である。

村上作品のなかでは、主人公や主人公の愛する人々が邪悪な者の介入によって繰り返し損なわれる。そしてそうした邪悪さによって彩られた不合理な出来事の意味が一体何なのか、最後まで明らかにされることがない。村上作品とは、邪悪さが栄える不合理な世界なのだ。

というのも我々普通の人間は、邪悪な目に遭った場合には、その嫌な経験を合理化しようとする傾向がある。たとえば、愛情のない両親にこづきまわされたり、教師からびんたを食らわされた時には、それは自分にとっての「試練」なのだとか、欲望と自己愛に充満した異性に収奪された時には、それは未熟な自分に下された「懲罰」なのだとかいって、自分の経験した不合理な事態に合理的な説明を求めようとするわけである。

しかし村上作品の中では、邪悪さは邪悪さのほかに何の意味も持たない。それは端的に邪悪なものとして存在する。村上作品はすべて、「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する、ということを執拗に語っているのである」と氏はいう。つまり、「村上春樹は、人々が邪悪なものによって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに何の意味もないことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた」

こうしてみれば、内田氏は村上文学を、不条理の文学ならぬ、不合理の文学と位置付けているように思える。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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