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村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」は二部からなっていて、第一部を「顕れるイデア編」、第二部を「遷ろうメタファー編」と題する。イデアとはプラトン以来の西洋哲学にとっての主要概念である。日本語では理念と訳されることが多い。またメタファーのほうは、西洋で発達した修辞学における主要概念である。こちらは比喩と訳されることが多い。修辞学上の概念ではあるが、哲学上の議論にもよく援用される。 村上は何故このような学問的なタームを自分の小説のサブタイトルに選んだのか。こうしたタームを持ち出すことで、哲学的なあるいは修辞学的な議論を展開するというわけではないようだ。と言って、哲学的あるいは修辞学的な背景を持つ、いわば衒学的な匂いのする言葉を、ある種のファッションとして弄ぼうというのでもないらしい。村上はこれらのタームに、それなりの小説技術上の根拠を与えているからだ。 イデアとは、小説の中で重要な役割を持たされている騎士団長の自己認識として提示される言葉だ。小説全体のタイトルにもなっている騎士団長とは、ある画家のマスターピースという位置づけになっているのだが、その騎士団長の姿を借りたあるイメージが主人公の私の前に現れ、以後小説全体を通じて重要な役割を果たす。この騎士団長は、絵の中の騎士団長が現実世界に移行してきたというものではなく、絵とは全く関係のないある抽象的なもの、それをイデアというのだが、そのイデアがたまたま騎士団長というイメージを借りて、現実界に顕現したということになっている。 哲学史上の常識では、イデアというものは、現実の物質界の根拠ということにされている。物質界の個々の現象を通じて共通する一般的かつ本質的な要素、それをイデアとしてとらえ、個々の具体的な現象をその現われと見る、というのが西洋哲学の伝統的な考え方だ。だからイデアと現象とは、基本的には対立するものではない。イデアは現象を根拠付けるものだ。 一方メタファーのほうは、あるものと別のあるものとを、共通する要素に着目して関連付ける働きのことだ。AはCを通じてBと共通する、というふうに言明されるのが普通である。たとえば、ジュリエットは薔薇のように美しい、という場合には、ジュリエットは美しさを通じて薔薇と共通する、ということになる。これを修辞学では明喩という。もっとも単純な比喩だ。それをすこしひねって、ジュリエットは薔薇だ、ということもある。共通する要素である美しさが自明のこととして省かれているわけだ。これを隠喩という(村上は暗喩といっている)。 以上は、イデアとメタファーという学問上のタームについての予備的な整理であるが、これらのタームを村上はどのように小説に生かしているか。 小説の第一部で、イデアは騎士団長の姿をとって私の前に顕れる。副題を「顕れるイデア編」という所以だ。面白いことに、イデアが騎士団長の姿をとったのは、偶然のことだとイデア自身がいうことだ。「あたしとしては、ミイラの姿でもべつによかったのだが、真夜中に突然ミイラの格好をしたものが出てきたりすると、諸君としてもたいそう気味が悪かろうと思うたんだ。ひからびたビーフジャーキーの塊みたいなのが、真っ暗な中でしゃらしゃらと鈴を振っているのを目にしたら、人は心臓麻痺だって起しかねないじゃないか」 それに対して私が、「あなたはどんな姿かたちでもとることができるのですか」と質問すると、騎士団長の姿をとったイデアは、「いや、それほど簡単ではあらない。あたしがとることができる姿かたちは、けっこう限られておるのだ」ともいうのだが、いづれにしても騎士団長の姿でなければならないということはない。私の家にたまたま騎士団長の絵があったので、またそのイメージが私にとって非常に印象的だったようなので、私の前に顕れるについて、そのイメージを借りただけだと釈明する。 それに続いて、騎士団長の姿をとったイデアは、イデアと霊との相違について説明する。私が真夜中に鈴の音を聞いたことを、即身成仏したものの霊ではないかと私が疑っているので、その疑いを晴らそうというわけである。そしてイデアとしての自分の特徴について説明する。「あたしは霊ではあらない。あたしはただのイデアだ。霊というのは基本的に神通自在なものであるが、あたしはそうじゃない。いろんな制約を受けて存在している・・・あたしは招かれないところには行けない体質になっている。しかるに諸君が穴を開き、この鈴を持ち込んできてくれたおかげで、あたしはこの家に入ることができた」 この部分を読むと、村上はイデアを霊の代替品としてとらえているフシがある。イデアと現実界とは、上述のように、根拠付けるものと根拠づけられるものとの関係にあるはずだ。だから、根拠付けるものつまりイデアと、根拠付けられるものつまり個々の現象とが、それぞれ本質的なかかわりをもたず、偶然の関係であってよいとはならない。イデアが騎士団長の姿をとってこの世に顕現したのであれば、そのイデアは騎士団長の根拠であらねばならぬはずだ、ところがこのイデアは、自分と騎士団長の姿とは、基本的には本質的な関係を持たないという。ということは、村上はイデアを厳密な哲学的な概念として遇しているわけではなく、霊の代替品のような扱いで、つまり文学的に援用しているにすぎない、ということになるのではないか。と言っても、べつにそのことがおかしいというわけではない。 かなり七面倒な議論をしたが、メタファーについては一層、便宜的な扱いという印象が強くなる。メタファーの話が出てくるのは、第二部の中ほどで、騎士団長をこの世に呼び込んだことで開かれてしまった環を、今度は閉じるハメになった私が、騎士団長を包丁で刺し殺した場面でのことだ。騎士団長を殺すと、床の一部が開き、そこから騎士団長殺しの絵の中のキャラクターである顔ながが顕れるのだが、その顔ながが、自己認識とのかかわりで表明するのが、メタファーという言葉なのだ。 私が顔ながに向かって、秋川まりえを救出するための道案内をしてほしいと言うと、顔ながは、「あなた様がメタファー通路に入ることはあまりに危険でありす。生身の人間がそこに入って、順路をひとつあやまてば、とんでもないところに行き着くことになる。そして二重メタファーがあちこちに身を潜めております」と言う。そしてその二重メタファーとは、「奥の暗闇に潜み、とびっきりやくざで危険な生き物です」と続ける。つまり、ここではメタファーは、修辞学上の抽象的な説明概念ではなく、具体的な生き物のイメージとして語られているわけである。これは働きを実体と取り違えるもので、メタファーの援用の仕方としては、いささか不自然な印象を与える。 だが、その不自然さも、イデアを実体としてあらわすこととセットで受け止めれば、そんなに不自然ではなくなる。イデアが、騎士団長殺しの絵の中の騎士団長のイメージをとったとすれば、メタファーが生身の生き物のイメージを取るのもそうおかしくはない。おかしいところがあるとすれば、村上が顔ながそのものをメタファーの遷ったものとせずに、それとは別の暗闇の中を二重メタファーというような言葉を使って表現していることだ。暗闇の中の不気味な生き物が何故メタファーなのか。それは小説の中で、このあと次々と登場する人物像で現わされているといいたいのかもしれないが、どうも文面からはそのような印象は伝わってこない。少なくともメタファーがどのように二重になるのか、それは見えてこない。 筆者としては、もしこの顔ながが、この物語全体のメタファーであったなら、もっとわかりやすくなっただろうにと思わないでもない。もしそういうことになるなら、顔なが(A)と物語全体(B)とは、どのような媒介項(C)を通じて共通するのであろうか。そんなことをふと考えてしまう。 |
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