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「騎士団長殺し」は、語り部の私が夜毎に鈴の音を聞くことから物語が発展してゆく。その鈴の音は、私が住んでいる小田原郊外の家の裏手の藪の中から聞こえてきた。私がその音の聞こえてくるところを確かめようとして家の裏手を探したところ、祠の裏側の藪のなかに井戸を一回り大きくしたような穴があった。鈴の音はどうやらその穴の中から聞こえてくるようだった。しかし、鈴がひとりでに鳴るということは考えられないから、その穴の中に鈴を鳴らしたものが存在するに違いない(人間ではないとしても)。しかし、これまで長い間誰も手を触れた形跡のない穴の中に、生きている人間がいる可能性は考えられない。そこでもしかしたら、即身仏とかその亡霊のようなものが鈴を鳴らしたのではないか、という仮説が持ち上がる。その仮説を持ち出したのは、一つ谷を隔てた山の上に住んでいる不思議な男免色だ。免色は私に上田秋成の作品「春雨物語」の中から「二世の縁」という話を取り上げて、その話に出てくる男が私と同じような体験をしたと語るのだ。 私は免色から「春雨物語」を借りてその話を読んでみた。すると自分の体験と恐ろしく良く似ているので気持ちが悪くなるほどだった。物語の男が聞いたのは鈴の音ではなく鉦の音だったが、時刻といい雰囲気といい自分の体験と非常によく似ている。気味が悪いことに、その音を鳴らしていたのは即身成仏をしそこなった者のミイラであった。しかもそのミイラは、百年以上もたってから生き返り、妻をもらって世俗的な生活をするようになったことで、周囲の人々から「入定の定助」と呼ばれてバカにされるのだ。「村の人々はそのあさましい姿を見て、仏法に対する敬意を失ってしまう。これが厳しい修行を積み、生命をかけて仏法をきわめたもののなれの果ての姿なのか、と。そしてその結果、人々は信仰そのものを軽んじるようになり、寺にもだんだん寄りつかなくなる。そういう話だった」。 要するにこの物語で秋成は、即身成仏になりそこなったことの愚かさとか、仏法の「あだあだしさ」をテーマにしているのであるが、私は別の感慨を抱く。もしあの穴を掘ってそこからミイラが出てきたりしたら、それをどう受け止めてよいか見当がつかなかったのだ。「もし重機を使って石をどかせ、土を掘り返し、本当にそのような『骨のみ留まりし』『あさましき』ミイラが地中から出てきたとしたら、私はいったいそれをどのように扱えばいいのだろう?」というわけである。 幸か不幸かミイラは出てこなかった。その穴の中で見つかったのは、夜毎に鳴っていたと思われるあの鈴だけであった。これが果たしてどのようにして鳴ったのか、あるいは鳴らされたのか、その手がかりはつかめない。私はとりあえずその鈴を家の中に持ちかえるのだが、そのことで騎士団長を呼び寄せることになるとは、その時には思いもよらなかった。 そういうわけで、上田秋成の小説とかそこに描かれた即身成仏のこととかは、村上のこの物語全体とは本筋でのかかわりはない。物語に味付けするための香辛料のような扱われ方だ。だがその村上の扱い方には、上田秋成に対する村上なりの嗜好が反映していると考えてよいだろう。村上は秋成の小説手法を日頃から尊重しているようなので、そうした自分なりの敬意をどこかで表明しておきたいと思っていたところ、この新しい小説の中でその機会を見出したということではないか。 村上がこの穴を小説の中に登場させた最大の意図は、この穴を通じて騎士団長をこの世界の中に呼び寄せるということにあったようだ。明示的には言われていないが、鈴の音を鳴らせたのは騎士団長その人だったわけだし、その鈴は私の家の近くにあいた穴の中にあったわけである。騎士団長とは、雨田具彦の絵の中のイメージだが、そのイメージがそのものとしてこの世に現われたわけではなく、単にそのイメージを借りて、イデアと称するものが現われたのだということになっている。イデア自身は目に見えない抽象的な存在であるから、それが人間の目に見える存在になるためには、なにか具象的なものの姿を借りるほかはないのである。 こんなわけであるから、この穴はこの現実世界とは異なる世界、それを異界と呼ぶとすれば、その異界とこの現実界とを結ぶ役割を果たしている。そういう意味では、異界に向かってあけられた穴、異界の穴といってよい。その異界の穴は、まず騎士団長のイメージとしてのイデアをこの世界に出現させたわけであるが、小説のクライマックスの部分では、私がそこをくぐって、現実界からワープする異次元空間の一部という形をとる。私は、現実世界から一旦異次元空間に迷い込み、試練を受けながらそこを潜り抜けた後で、突然この穴に放り出されるのだ。騎士団長は、どこともしれない未知の次元からこの現実世界に出現したわけだが、私は既知の現実世界から一旦未知の異次元空間に迷いこんだ上で、この穴を通じて見慣れた現実世界に立ち戻ってくるわけである。 穴とか異次元空間とかは、村上が好きな道具立てだ。それがもっとも有効に働いたのは「ねじまき鳥クロニクル」だと思う。村上はこの新しい小説で、その道具立てを用いて壮大なイメージを再現しようと思ったのだろうが、「ねじまき鳥」ほどには成功していないようである。それは、私が異次元空間に入り込み、そこで試練をうけることについて、その必然性というか、物語の自然な流れというか、要するに本物らしさが感じられないからだろう。物語は本物そのものである必要はないのかもしれないが、本物らしさをもつことは必要だ。それが欠けると話が荒唐無稽に陥る。荒唐無稽な話は話としては面白くありうるが、壮大な物語にはなりえない。 |
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