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村上春樹の「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」は、2009年の春から一年間、女性向け雑誌 anan に連載したエッセーを集めたものである。村上は2000年の春から一年間、やはりこの雑誌のためにエッセーを連載しているから、ほぼ10年ぶりの再開ということになる。村上はこの雑誌を、エッセー発表の媒体として気に入ったのだろう。 題名にあるとおり、野菜とか食べ物についての文章が多いのは、読者層がグルメな若い女性だという事情も働いているのかもしれない。再開第一号は、「野菜の気持」と題して、野菜の気持ちがどんなものか忖度しながら、キャベツとアンチョビを混ぜたパスタの作り方を紹介している。筆者のような枯れた老人さえ食欲をそそられたのだから、若い女性たちのなかには、これを参考にして自分で作った人もいるだろう。 これにシーザーズサラダの作り方とか、ミートグッドバイの話が続く。ミートグッドバイというから菜食主義の勧めみたいな話かと思ったらそうではなくて、肉離れの話だった。数々の名言で知られる長島茂雄の造語なのだそうだ。なるほどミートがグッドバイすれば、肉離れになるわけだ。 「おおきなかぶ」というのは、ロシア民話のことである。これは日本でも人気のあるお話で、幼稚園のお遊戯の定番になっていますと言いながら、この物語が、やっとこさかぶが抜けたところで終わっているのは疑問だ、と村上は言う。せめてそのかぶを食べてまずかったとか、わざわざ呼び出されたネズミがなんだよ、と不平をいったりしたとか、もうすこし工夫があってもよいのではないか、そう村上は言って、同じかぶの話でも、日本の話はもっと手が込んでいると言う。その証拠として村上が持ち出すのは、今昔物語のなかの、あの有名な話だ。 かぶ畑を通りがかった男が俄に性欲に駆られるあまり、畑になっていたおおきなかぶを引っこ抜いて、それに穴をあけて自分の一物をつっこんだ。おかげで性欲が収まった男はそのかぶを畑に捨てて通り過ぎたが、あとでやって来た娘がそのかぶを食べたところ妊娠してしまった、という話である。この話についての村上の印象は次のようなものだ。 「変な話ですよね。何度読んでもすごくシュールだ。教訓も何もない。あるいはどれほど性欲が高まっても野菜とはみだりにセックスしないほうがよい、蕪にだって人格はあるんだぞ、というのがこの話の教えなのか? ロシアと日本とでは、同じ蕪の話でもずいぶん違うものですね」 「アボガドはむずかしい」というのは、アボガドの食べごろを推測することの難しさについての話である。筆者はほとんどアボガドを食べないので詳しいことはわからぬが、村上によれば、アボガドの食べごろは外見からは判断しにくいそうなのだ。だが食べごろのアボガドはおいしい。アボガドにキュウリと玉ねぎを混ぜて、生姜ドレッシングをかけたシンプルなサラダは、村上の家の食卓の定番なのだそうだ。 野菜とか果物の話の延長で、パイナップルの話も出てくる。これは「オキーフのパイナップル」という題名で、ジョージア・オキーフが有名なフルーツ会社の招待でハワイに滞在したことについて触れている。その会社は無論オキーフにパイナップルの絵を描いてもらいたくて、わざわざ金をかけて彼女を招待したのだが、そこは天衣無縫のオキーフのこと、ベラドンナやハイビスカスやブルメリアの花ばかり描いて、パイナップルの絵は描いてくれなかった。そこで彼女が本土に帰ったあと、会社は彼女のもとにパイナップルを送りつけた。そこで彼女も仕方なくパイナップルの絵を描いて送ってやった。しかし、それは会社が期待していたような、はじけるようなパイナップルの実ではなく、パイナップルの可憐な蕾をえがいたものだった。そんな話である。 オキーフが描いたパイナップルの花の蕾がどんな形をしていのか、この文章からはわからないが、オキーフの描いた花の絵といえば、女陰の形を連想させることで有名だ。このときのパイナップルの花の蕾も、あるいは女陰の形を思わせるものだったかもしれない。だとすれば、そのフルーツ会社の人たちは、度肝を抜かれたに違いない。 こんな調子で、話が段々下のほうにずれていくのは、村上のいかにも村上らしいところである。(下の絵は、オキーフの描いた花びら。ジュディ・シカゴほど露骨ではないが、女陰のエロティックな雰囲気が出ている) |
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