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村上朝日堂はいかにして鍛えられたか


「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」は、週刊朝日に1995年11月から1年1ヶ月にわたり連載したエッセーを集めたものである。1986年に始まる長い海外生活から日本に戻ってきて、村上にとっては10年ぶりの連載エッセーだったということだ。そんなこともあるのか、日本についての文明論的な感想がけっこう多い。そういう感想は、諸外国に比較しての日本の特殊性みたいなものを指摘しているのだが、いきおい批判的というか、悪口にも聞こえる。

村上は悪口はなるべく言わない主義だそうなので、その彼にして出てくる悪口には厳しいものがある。一応のエチケットとして、悪口の相手の名は明かさないと断ってはいるものの、文章を注意深く読めば、相手の名がおのずと浮かび上がってくるようになっている。たとえば某航空会社には非常に不愉快な思いをしたと書きながら、その航空会社が「これまでに引き起こした事故をあげれば・・・長くなるので割愛する」と言っている。そんな航空会社がどこか、日本人なら誰でも知っていることだ。また、某高級デパートは障害者用のエレベーターを設置しておきながら、障害者にはできれば乗って欲しくないというメッセージを発している。これについて村上は実にアンフェアなことだと悪口をいいながら、「あえて実名は出さないけれど、これじゃライオンも恥ずかしくて泣いちゃうよね」と言っている。ライオンのいる高級デパートがどこか、これも誰もが知っていることだ。

一方、最後まで名前のヒントも与えないケースもある。村上は都内の某有名フランス料理店で非常に不愉快な思いをし、抗議の意思をあらわすために長い苦情の手紙を書いたのだそうだが、これについては、某有名フランス料理店とあるほかは、その店がどの店なのか、具体的な手がかりはない。しかしこれは、筆者にはわからないだけの話で、この手紙を詳細に分析すれば、それがどのレストランなのか、わかる人もいるのかもしれない。

このように村上は、かなり手の込んだ悪口を言うのが趣味らしい。というのも村上は、悪口をそんなに悪いことだとは思っていないようなのだ。村上がバーを経営していたとき、多くの文学者たちが彼の店にやって来たが、その連中は例外なく人の悪口ばかりいっていた。それも「辛辣で、具体的で、とにかくしつこい」。だが村上はそれらの悪口を、醜悪とは感じずに、これはすごい、と感じた。そういうわけだから、「下手に褒められるより、悪口を言われているほうがちょうどいいんだ」と思うようになった。「批判されたり悪口を言われたりするのはもちろん面白いことではない。でも少なくとも、欺かれてはいない」からだと村上は言う。随分とシニカルな見方といえないでもない。

悪口にかぎらず、他人の噂話は誰にでも面白いものだ。だいたい人間同士の会話があるとして、その大部分は他人の噂話なのではないか。筆者のようにとっくに引退生活に入ったようなものでも、時折昔の知り合いで集まるようなときには、話の大部分はその席にいない人物の噂話である。また家の近くの公園を散歩している折に、老人たちが話し合っているのを聞くと、それも大部分が噂話である。かほど他人の噂話は人間の興味を掻きたてるものであり、その中でも悪口はもっとも気分がすっきりするものらしい。

このエッセー集は悪口ばかり集めているわけではなく、なかには村上が大いに感心したという話もある。その一つ、共産党の機関紙「赤旗」の販売員のおばさんに感心した話。村上は新聞の勧誘を断るときに、漢字があまり読めないからというのを理由にしていたところが、これが効を奏して、だいたいの勧誘員はあきれた顔で立ち去っていった。ところが赤旗の勧誘にきたおばさんは、村上が漢字が読めないと言うのを聞くと、にこにこしながら、「あのね、『赤旗』ってね、マンガなんかも載っているのよ。漢字だめでも、マンガ読めるでしょう?」と優しい声で言った。それ以来村上は、漢字を読めないふりをして新聞の勧誘を断るのはやめたそうだ。

村上には会社員の経験がない。そこで会社員というものがどんな生き方をしているのか、会社員の経験がある安西水丸(この仕事でも相棒を組んだ)に訪ねたところ、安西は次のように答えた。「こういっちゃなんだけどね、ムラカミくん、世の中に会社くらい楽しいものはないよね。何しろろくに働かなくてもちゃんと給料はくれるし、昼前に出社したら即宴会だし、綺麗な女の人がいっぱいいて社内恋愛、不倫やり放題だったし・・・ふふふ」

村上はこの言葉が信じられなくて、そんなのは安西だけの特殊なケースだろうと思ったようだが、会社勤めのある人には、安西の言うことに大方心当たりがあると思う。実際日本の会社というものは、少なくとも20世紀の末頃までは、ろくに働かなくても給料を払ってくれるところであり、遊びの仲間に事欠かないところであり、社内恋愛や不倫のチャンスを豊富に提供してくれる場でもあった。筆者のいた会社もそうした奇特な場の一つであって、ムラカミが心配するような退屈とは無縁だったと言える。

こんな調子でこのエッセー集も楽しい話で一杯だ。釜飯を蒸らす合間に読むのに都合がいいことはもちろん、通勤電車の中で読んでもよいし、布団の上に寝転びながら読んでも良い。無論ウィスキーを飲みながら読むにも適している。ただしへべれけに酔っぱらっていない場合の話だが。







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