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村上春樹「遠い太鼓」


村上春樹は1986年の秋から89年の秋までの三年間ヨーロッパで過ごした。「遠い太鼓」はその間の生活記録である。この三年間村上はしょっちゅう小さな旅行を繰り返していたこともあって、外国での生活記録というよりも、紀行文のような体裁を呈している。本人もこれはヨーロッパ旅行中の紀行だというようなことを言っている。彼ははじめから紀行を発表するつもりで、この長期の旅行に臨んだようなのだ。

しかし三年もの長い間、外国で、それも定住という形ではなく、旅をしながら歩くというのは大変なことだ。並大抵の決意ではなかなかできないだろう。村上はいったいどういうつもりでこんなことをする気になったのか。そこは村上のこと、例によって人をはぐらかすような言い方で、その動機を語っている。

「ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた」。その太鼓の音につられて村上は「どうしても長い旅に出たくなったのだ」と言うのである。

その長い旅に村上は配偶者、つまり細君を伴って行った。夫婦だから一緒に旅をするのは当たり前と思われるかもしれないが、しかし旅行というのは特別なものだ。その間中、いつも一緒にいなければならない。一緒にいるのに退屈したから当分別々にすごそうやというわけにもいかないし、まして夫婦喧嘩などしている余裕はないだろう。三年もの間どうやって、喧嘩もしないで仲良く一緒に過ごすことができるだろう。これは小生ならずとも誰もが知りたいところだろう。村上はその疑問に答えるヒントのようなものを次のように書いている。

「僕が結婚生活で学んだ人生の秘密はこういうことである。まだ知らない人はよく覚えておいてください。女性は怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいから怒っているのだと。そして怒りたいときにちゃんと怒らせておかないと、先にいってもっとひどいことになるのだ」

つまり村上はこの旅行中においても、細君がわけもなく怒り出したら、怒りたいだけ怒らせてやることで、夫婦関係の安定を図っていたというわけなのだろう。それにしても大変な忍耐だ。これでは女房を連れた旅行は一種の苦行ということになりかねない。小生などはそんなことをしたら、連れ合いがパンクする前に自分がパンクしてしまいそうだ。

だがまあ村上はしょっちゅう細君を怒らせていたわけでもないようだ。そんなことが続いたら、いくら村上でも三年はもたなかっただろう。

この三年のあいだ村上は、ローマを一応の根拠地にして、そこからヨーロッパの各地を小旅行して歩き回ったようである。一番気に入ったのはギリシャで、イタリアとギリシャの間を何度も往復している。そこで村上は、ギリシャ人やイタリア人と付き合う機会が多かったのだが、その他にもヨーロッパ各国の人びとを観察する機会を多く持った。それを通じて、ヨーロッパという狭い世界でも、国によってだいぶ生き方・振舞い方が違うという印象を持った。その印象を村上は、次のように単純化して紹介している。ギリシャにやって来たバック・パッカーたちを見ての印象である。

「ドイツ人は顔を見ればわかるし、いちばんタフな装備をしている。カナダ人とオーストラリア人はリュックに国旗を縫い付けているからすぐにわかる。北欧人はドイツからタフさを抜き取ってこころもち空想的にしたような顔つきである。すばしこそうで何となく皮肉っぽい顔つきのがフランス人、でもちょっと人なつっこいかなというのがオランダ、ベルギーあたり。そういう人びとに囲まれて幾分居心地悪そうにしている(でも本人は楽しんでいるのだろう)のがイギリス人、ということになる」。この中にイタリア人が入っていないのは、彼らのほとんどはバック・パッカーみたいな無粋な真似はしないからだ。でもいないわけではない。そういうイタリア人はたいてい、声が大きい、行儀が悪い、服が派手、よく食べよく飲む、という特徴を持っている。

この単純化された印象からもわかるとおり、イタリア人を見る村上の目は厳しい。厳しいというよりも、悪意を認めることさえできるほどだ。イタリア人を描写する村上の筆致は罵倒を絵に描いたようなものである。イタリア人は仕事らしい仕事をせずに遊びのことばかり考えている、規律という感覚がないのでだらしない限りである、こんなわけだからイタリア人の作ったものにはろくなものはない、イタリア製の自動車はしょっちゅう故障するのが当たり前なので、それに乗って長距離の運転をするのは無謀極まりない。つまりイタリア人は何から何まで信用できない。その証拠にイタリアではものを盗まれるのが日常茶飯事である。自分はイタリアにいる間、常に手荷物を盗まれないように気を配らざるをえなかった。一瞬でも気を抜いたらとんでもないことになる。自分ら夫婦は、ちょっと油断した隙にパスポートやクレジットカードの入ったバッグを盗まれた。という具合に村上のイタリアへの罵詈雑言は尽きることがないのである。

村上がイタリアで以上のような印象を受けたのは1980年代の末近い頃のことだが、果たしていまでも村上の指摘どおりなのか。小生は昨年(2015年)の秋にローマに旅行したが、その折には物を盗まれたこともなかったし、不愉快な思いをしたこともなかった。治安の悪さも感じなかったし、人びとは非常にフレンドリーに見えたものだ。これは滞在期間が短かったせいでイタリアの表面しか見えなかったせいなのかどうか、小生にはよくわからない。ともあれ村上がイタリアを罵倒する背景には、彼が実際にこうむった不愉快な出来事があるようだから、村上の言い分を一方的だと断罪するのは不当かもしれない。

村上はギリシャ人についてもかなり厳しい言い方をしているが、そのギリシャ人もイタリア人に比べればましだといっている。仕事がいい加減なことはイタリア人と同じだが、ギリシャ人には人間として憎めないところがあるというのがその理由らしい。

村上はロンドンにも一ヶ月ほど滞在しているが、その間小説の執筆に没頭して現地の人とほとんど話をしなかった。その最大の理由は言葉が通じなかったことだと村上は言う。村上はアメリカ英語に馴れているので、ロンドン人の癖のある英語がなかなか聞き取れないというのだ。その上、ロンドンの人は、外国人とうまく意思疎通できない場合、なんとかわかりあえるように努力することがない。その点アメリカ人は違う、「アメリカ人は相手に自分の言っていることが伝わらないと、おおかたの場合、ちゃんと伝わるまで速度と表現を変えて何度も繰り返してくれる」と言うのである。

要するにイギリス人よりもアメリカ人のほうが親切だと言いたいのだろうが、親切という点ではオーストリア人もそうだった、と言って村上は、オーストリアでイタリア製の車がエンストしたときの体験を語る。オーストリア人は村上の故障したイタリア車を二日かけて、しかも父子二人がかりでなおしてくれたのだが、それは日曜日のことで、彼らは休日を台無しにしてまで、見知らぬ旅行者のために肌を脱いででくれたというわけなのである。

とにかくこの旅行記は最後のほうへ近づくにつれ、イタリアへの罵倒の調子が強まってくる。イタリアには郵便制度はあってないようなものだとか、イタリアでは物を盗まれるのは盗まれるほうが悪いのであって盗むものにはたいした責任はないとみなされているとか。これは盗みではないが、悪徳タクシーが多くて旅行者から法外な料金を巻き上げるのもある種の盗みと言ってよいとか。イタリアでは、とりわけ空港のタクシーには乗らないほうがよい、それらの殆どは雲助タクシーと言ってよい、とかいった具合で延々と悪口が続く。

しかし悪口だけではない。村上はイタリア人がひどい連中だと本分のなかで散々書いておいて、後で思い出せばイタリアには素敵なことがいっぱいあったとも言う。そのもっとも大きな要因はイタリア人が率直で飾らないことだと言いたいようだ。イタリア人の率直さは筆者も短い旅行の間に感じたところだ。






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