村上春樹を読む
HOMEブログ本館日本文化東京を描く英文学フランス文学宮沢賢治プロフィールBBS



村上春樹「村上朝日堂の逆襲」

「村上朝日堂の逆襲」は、1985年4月から一年間にわたり「週刊朝日」に連載されたエッセーを集めたものだ。前作の「村上朝日堂」が「日刊アルバイトニュース」というやや特殊な媒体に連載されたのに対し、これはメジャーな週刊誌に連載されたということもあって、文章もやや長め(原稿用紙七枚程度)だし、一文づつの完成度も高いが、書かれている内容はそう違わない。あいかわらず村上の個人的な関心事を中心に回っていると言った感じである。

肩の凝るような話題はまったくないので、すらすらと読めてしまう。村上は、すらすらと読めてしまう小説のことをスパゲッティ小説と読んでいるが、それはスパゲッティを茹でながら読める気軽な小説という意味だそうだ。それを援用すれば、筆者にとってこのエッセー集は「釜飯エッセー」ということになろう。筆者は釜飯を蒸しながらこれを読んだ次第なのである。

図らずも料理のことが話題に出たが、村上は料理を含めて家事が好きなのだそうだ。一時期細君が働きに出て、村上がその間主夫の役回りを演じたというが、その役割が非常に気に入ったので、できたらもう一度したいとまで言っている。だが、細君のほうで働きに出る気がないので、実現できないのが残念なのだそうだ。その点筆者は幸運である。筆者は定年を過ぎて以来外に働きに出ることを止めて、それ以来主夫業に専念できている。連れ合いのほうがあいかわらず外に働きに出ているからだ。そんなわけで、時折は釜飯を蒸しながら村上のエッセーを楽しんでいるのである。

「村上朝日堂」でもそうだったが、ここでも村上は自分の趣味について積極的に話題にしている。音楽とか映画とか運動とかがその中心を占める。小説については余り語ることがない。それは村上自身が、他人から自分の小説について批評されることを好まないからだろう。村上が自分の文学について書かれた批評をほとんど読まないことは有名なことだ。何故読まないのか。この理由の手がかりを村上はあるエッセーのなかで言及している。そこには次のように書かれている。

「作家が批評家を批評したり、それに対して何らかのエクスキューズをするのは筋違いだと僕は考えている。悪い批評というのは、馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋に似ている。もし我々が道を歩いているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。『どうしてこんなに臭いんだろう』といった疑問を抱いたりするべきではない。馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたらもっと臭くなることは見えているのだ」

つまり、批評家の批評などを、作家が相手にするのは、馬鹿げていると村上は考えているわけだ。作家には作家の領域があるように、批評家には批評家の領域がある、それは作家にとっては他人の領域なのだから、へたにかかわらないほうがよいということらしい。

そこで村上は、文学批評とは別の領域に話題を求めるわけだが、このエッセー集のなかでは、映画についての話題が結構光っていた。村上は映画を娯楽として見ているようで、映画を肴にしてこむつかしい議論を展開する気はないように見えるが、それも時と所によりけりということらしく、ある種の映画については、厳しい批判をして見せたりもする。たとえば「ランボー2」という映画。これはベトナム帰りの元兵士を主人公にした「ランボー」という映画の焼き直しだが、一作目とはほとんど関連がなく、全く別の映画と言ってよい。それを村上は、結構手厳しく批判しているのだ。

この映画でも、「ランボー」で主演したスタローンが出てくるのだが、そのスタローンがベトナム戦争に言及して「もういちど戦争があれば、我々は勝つ」といったことを取り上げて、この映画がアメリカの右翼によって政治的に利用されていることに不快感を示しているのである。この話題には、スタローン自身はベトナムへの兵役逃れをしたくせに、よくそんなことが言えるというおまけまでついている。

村上が、いわゆる下ネタの名人であることは周知のことだが、このエッセーではあまり露骨には取り上げていない。さらりと、さりげなく、言及するのみである。その言い方がまた村上らしい。外国の諺だとことわったうえで、「人生の幸せは三つしかない。前の一杯と、あとの一服である」というのだ。一杯のあとのことと一服の前のことを言外に語っているわけだが、そこで語られていることがセックスであることは言うまでもない。つまり一杯飲んだ後でセックスをし、セックスをした後で一服する、これに増した幸せはこの世に存在しないと言っているわけである。これが正しいとすれば、禁煙した筆者などは、この無上の幸せの一部を自ら放棄したということになる。

そこで、セックスの前に何を飲むか、それが気になるところだが、それについて村上は、このエッセー集の中では多くを語っていない。村上の小説の中では、登場人物たちは概ねビールばかり飲んでいて、それはセックスの前でも変わらない。村上自身もビール好きのようで、年中ビールを飲んでいるといった印象を受けるが、セックスの前でもやはりビールを飲むのか、その点は明らかにしていない。ただ一つ、ワインの変った飲み方を紹介しているだけだ。それは、ワインをペリエで割ってそこにレモンをしぼり、ジュース代わりにがぶ飲みするというものだ。そんな無茶な飲み方を筆者は無論したことがない。

このエッセー集を書いている時点では、村上は日本酒を飲まないと言っていた。若いころに日本酒をがぶ飲みにしてひどい目にあい、それ以来懲りてやめたということらしいのだが、それがこのエッセー集を書き終わる頃から、再び飲み始めたらしい。そのことをこのエッセー集の共同制作者である安西水丸が評して、「村上くん、それは人間的に成長したんだよ」と言ったそうだ。

筆者にも同じようなことを言われた経験がある。先日昔の仲間と飲んだ際に、近頃物忘れがひどくなったと言ったところが、ある男が「Hくん(筆者の名前のイニシャル)、それは人間的に進化したんだよ」と言って、慰められたのであった。







HOME次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである