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村上春樹「TVピープル」


「TVピープル」に収められた六篇の短編小説は1989年の6月以降年末までの半年の間に書かれた。長編小説との関連で言うと、「ダンス・ダンス・ダンス」(1888年)と「国境の南・太陽の西」(1992年)にはさまれた比較的長いインターバルの時期であり、村上は海外で生活していた。

六篇のうち表題作をはじめとする四篇は異常な体験を描いている。残りの二編(「飛行機」と「我等の時代のフォークロア」)は、リアリズム風の文体で、異常とまでは言えないかも知れぬが、決して正常とは言えない出来事を描いている。村上には、異常と正常の境界にあるような事柄を描くという特徴があるが、この短編集はそうした特徴がかなりストレートに現れていると言えよう。そこに筆者などは、「ねじまき鳥クロニクル」以降の、アンチリアルな世界への助走のような動きを感じる。

表題作の「TVピープル」は、日常の空間に闖入した異様の者たちをモチーフにしている。彼らは、正常の空間に生きる主人公たちには何の接点もないものとして描かれている。彼らの存在している空間は、正常の空間に隣接しているが、正常の空間との間に直接の回路をもたない。彼らが正常の空間にいる人間たちにその存在を意識させるのは、音を通じてだ。その音が実にユニークなのだ。

彼らが始めて現れたときに立てた音は、ックルーズシャャャタル・ックルーズシャャャタル・ッッッッックルーズムムムス、というものだった。そのうち彼らは現れるごとに、タルップ・ク・シャウス・タルップ・ク・シャウス、という音を伴うようになる。時計の音に似ているこの音は、彼らTVピープルの存在の様式を表現しているのだ。TVピープルはテレビの画面の中にいることもある。そういうときには、タアアジュラヤィフッグ・タアアジュラヤィフッグという音が聞こえてくるが、それがテレビの機械がたてる音なのか、それともTVピープルがたてる音なのか、とても曖昧なのだ。

こういう文章の運び方は、いままでの村上にはなかったものだろう。擬声語とか擬態語とかいわれるものは、日本語の大きな特徴をなすものだと言えるが、村上はその特徴を上手に使っている。それは、日本と遠く離れて生活していたことと、なんらかのつながりがあるのかもしれない。

ともあれ、こういう擬声語を聞かせられると、筆者などは、自分自身の体験に思いを馳せずにはいられない。筆者の耳も、聞こえてくる音になんらかの意味を認めたがる傾向があるからだろう。たとえば筆者はよく印刷機械でプリントアウトをするのだが、その際に機械のたてる音に関心を引かれる。そしてその音をある種の言葉に置き換える傾向がある。機械が年賀状のはがきをプリントアウトするときにたてる音は、シャッキンコケタカ・シャッキンコケタカと聞こえたり、A4用紙をプリントアウトするときには、スケップ・ルケップ・クレーッップ・スケップ・ルケップ・クレーッップと聞こえたりする。

「加納クレタ」は、「ねじまき鳥クロニクル」に出てくるキャラクターだが、この短編小説の中のクレタは、ねじまき鳥の中のクレタとつながりがないといってよい。この短編小説の中のクレタは、男に襲われ強姦された挙句に、喉を切り裂かれてしまうのだが、なぜそうなるのか、無論わかりやすい説明は見つからない。クレタは次のような謎の言葉を残して死んでゆくのだ。
  れろっぷ・れろっぷ・りろっぷ。
  私の・名前は・加納クレタ。

この「加納クレタ」と「ぞんび」の二編は、日本の雑誌社から掲載を拒否されたそうだ。理由は明らかではないが、恐らく日本の読者にとっては耐え難いほど残酷だと受け取られたのではないか。村上はこの二つの短編小説で、人間の暴力とか醜悪さをストレートに書いたと言えるのだが、その率直さが当時の日本人には受け入れがたい、と日本の雑誌の編集者が判断したのだろう。







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