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村上春樹「回転木馬のデッドヒート」


村上春樹には、同じ一つの問題意識に従って一連の短編小説を書き、それを一冊の本にして刊行する傾向がある。「神の子供たちはみな踊る」とか「女のいない男たち」はその典型的なものだが、「回転木馬のデッドヒート」はこうした流れの仕事の嚆矢をなすものだと言えよう。

村上はこの短編集の前書きといえるような部分で、自分がこの短編集に納められた作品群をどのような動機で書いたのか、種明かしをしている。それによれば、この作品集の執筆者である僕(村上春樹)は、作家としての職業柄、いろいろな人から小説の種になりそうな内訳話を聞かされる機会がある。聞かされた話は、そのまま自分の記憶の片隅にしまっておくだけなのだが、時によってそれを言葉で表現し、小説という形にしたいという衝動が湧いてくる。その衝動に従って書いたのが、この短編集に治められた諸作品なのだ、と言うのである。

この種明かしからわかるように、この小説に収められた作品群を結びつけるのは、村上が他人から聞かされた話を再現しているという、行きがかり上の共通性だけであって、内容の上での共通性はいささかもない。それでいて、なにかしら共通点を感じさせるのは、それらの話が村上の小説家としての趣味に一致しているという点にもとづくのであろう。

いづれにしても村上は、他人から聞いて、そのまま自分の記憶の片隅にしまっておいたものを、ある日突然引っ張り出してきて、それらを言語の形で再現して見せたわけだ。なぜそういうことになったか。その理由は作家としての村上の側ではなく、素材としての話のほうにある、と村上は言っている。自分は、自分自身が楽になるためにこれらを小説にしたのではない、そうではなくて、それら(村上は彼らという)が、語られたがっているのだ、というのである。

村上はこうして語られた話を一冊の短編小説集にまとめるに当たって、「回転木馬のデッドヒート」という表題をつけた。村上は、これらの話たちが、回転木馬に似ているというのだ。「それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗り換えることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない」。

村上はなぜこんなふうに思ったのか、彼自身の文章からは伝わってこないのだが、筆者なりにつじつまあわせをすると、一つ一つの話はそれぞれつながりがないように見えるが、それらが同じ回転盤の上に乗っているという点では結びついている、そんなことを言いたかったのかもしれない。この解釈が正しいとすれば、個々の話たちは一つ一つの物語に相当し、それを載せている回転台が村上自身だということになる。

村上は、これらの話のひとつひとつをスケッチのようなものだと言っている。他人から聞いた話をスケッチするようなタッチでそのまま書き留めたという意味であろう。そこで筆者も、それら個々の作品の表情というようなものを、スケッチ風に書きとめておくことにしよう。

冒頭を飾る「レーダーホーゼン」は、「何の説明らしい説明もなく父親と込みで」母親から棄てられてしまった女の話である。レーダーホーゼンとはドイツ風の半ズボンのことだ。母親はドイツに行った土産にそれを買ってくるよう父親(つまり自分の夫)から頼まれて買いに出かけるのだが、どういうわけかそれがひとつのきっかけとなって、一人になることを選んだという話である。母親がどういうわけでそういう決断をしたのか、それについては何も触れられていない。それについて語っている女がよくわかっていないからだ。ただ、レーダーホーゼンが熟年夫婦の離別と結びついていたらしいということが語られるだけである。

二作目の「タクシーに乗った男」は、「他人のために値打ちの出る絵ばっかり選んで」、自分自身のために「選んだたった一枚がまるっきりの無価値だった」というある女画商から聞かされた話である。彼女はその絵が気に入ったわけではなかったのだ。彼女が気に入ったのは、絵自体ではなく、そこに描かれていた若い男の表情なのであった。彼女はその表情を毎日見ていたい気持になって、その絵を自分自身のために買ったのだった、というような話である。

三作目の「プールサイド」は、「まず髪、それから顔の肌、歯、顎、手、腹、脇腹、ペニス、睾丸、太股、足。彼は長い時間をかけてそのひとつひとつをチェックし、プラスとマイナスを頭の中のリストにメモした」というように描写される、ある一人の若者から聞かされた話である。その若者は、村上に向かって、自分の風変わりな体験を小説の材料に使ってもいいと請合うのだ。

続いて「嘔吐」は、「僕(村上)と同じように・・・古いレコードのコレクターで、それから友だちの恋人や奥さんと寝るのが好き」な男から聞いた話だが、その男は自前の女は持っていないのだった。その次の「雨宿り」は、「何年か前にお金をもらって複数の知らない男と寝たことがある」女の子から聞いた話で、その女の子とはたまたま雨宿りのために入った喫茶店の中で出会ったのだった。この女の子とは以前仕事のことで会ったことがあるが、親しかったわけではない。それなのにこの女の子は、自分の性的なアドヴェンチャーと言うべき話を、僕に向かってあけすけに話すのだ。

このほかの作品をあわせると、全部で八つの短編小説がこの本には収められている。いずれも僕(村上)が他人から聞いた話である。村上はその話を、脚色せずにありのままに再現したと言っている。彼がそれらをスケッチと呼ぶわけは、それらがあくまでも現実の写し絵だと強調したいからであろう。







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