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村上春樹の初期の短編小説は、これまであまり注目されることがなかったと思うが、それに一定の重要性を認め、村上小説の原像とまで言って評価しているのが加藤典洋である。彼は最近の村上春樹論「村上春樹は、むずかしい」の中で、「中国行きのスロウ・ボート」以下三点の短編小説を取り上げ、それらを短編の「初期三部作」と呼んで、「戦う小説家」としての村上の原像が現れたものと評価している。筆者が村上の初期の短編小説を読んでみようという気になったのは、半分は加藤にそそのかされてのことである。 いま文庫版で手に入る「中国行きのスロウ・ボート」という短編小説集は、村上の初期の短編小説七篇を収めている。そのうち加藤のいう「初期三部作」を含む五篇は、「風の音を聴け」と「1973年のビンボール」執筆後に書かれ、残りの二篇は「未をめぐる冒険」執筆後に書かれている。村上の小説は、「羊をめぐる冒険」を境にして大きく転換したと言ってよいが、この七篇の短編小説にその転換ぶりがどのように反映されているか、よくはわからない。なんとなく感じるのは、「風の歌」に見られるあの軽佻浮薄を装った文体からの脱出の意欲のようなものである。村上はこの一連の短編小説の執筆を通じて、自分の文体の幅を広げようとしたのではないか、そんなふうに思えるところがある。 本の表題にもなった「中国行きのスロウ・ボート」は、村上の最初の短編小説である。これは、日本人が中国人から負わされている重荷のようなものを描いた作品だ。一人の日本人が、これまでの半生で三人の中国人と出会った。その出会いはみなほろ苦いもので、中国人に向かって謝りたい感情を起こさせるようなものだった、という内容である。この感情を村上は、主人公の個人的な体験として描いているのだが、実はそうではなく、日本人が全体として中国人に対して抱いている感情を反映しているに過ぎない、というような感じが伝わってくるようになっている。つまりこの小説には、過去に日本人が中国人に対して犯した罪深いことを深く反省しているところがある。 この反省を村上は、父親の背中から学習したというのが加藤の見立てである。加藤はその証拠として、村上のイスラエル賞受賞演説「壁と卵」を引き合いに出している。その演説の中で村上は、自分の父親が戦争中に中国で見聞した日本側の理不尽な行為を深く反省し、生涯中国に対して罪の意識を持ち続けていたと告白したのであったが、その父親の中国に対する罪の意識を、村上は息子として受け継いで、自分自身の文学作品の中で展開していった。この短編小説は、そうした村上の中国へのこだわりが現れた最初の例だというわけである。この見立てには、それなりに納得できるところがある。 二作目の「貧乏な叔母さん」は、貧乏人の虐げられた境遇とそれからの解放を夢見るという内容の作品だ。一種のユートピア願望小説と言ってもよい。貧乏人はその存在そのものが他人を不愉快にさせるということから、この小説は語り始める。主人公の背中にある日突然貧乏な叔母さんがとりついてしまう。貧乏人が脇にいると、人々は不愉快なことを思い起こさせられる。「ある友人にとっては、それは昨年の秋に食道ガンで死んだ秋田犬であった」し、「ある不動産業者にとっては、それはずっと昔の小学校の女教師であった」。その女教師は空襲で火をかぶって醜悪な容貌になってしまったのであった。そんなわけだから、貧乏なおばさんを背中に背負った主人公も皆から敬遠されるようになる。 背中の貧乏な叔母さんはいつの間にか消えていなくなった。そこで「もし」、と主人公の僕は思う。「もし一万年の後に貧乏な叔母さんたちだけの社会が出現したとすれば、僕のために彼女たちは街の門を開いてくれるだろうか? そこには貧乏な叔母さんたちによって選ばれた貧乏な叔母さんたちの政府があり、貧乏な叔母さんたちがハンドルを握った貧乏な叔母さんたちのための電車が走り、貧乏な叔母さんたちの手によって書かれた小説が存在しているはずだ」 この貧乏な伯母さんたちについて加藤は、それをプロレタリアートの隠喩だとし、村上はこの小説の中で、プロレタリートの境遇とそれからの脱出願望を描いたのだと解釈する。村上なりの社会へのコミットメントの現われだと見ているわけである。初期の村上は、社会からのデタッチメントを表に出していたから、加藤の言うとおりだとしたら、これはかなり思い切った作品だといえよう。「中国行きのスロウ・ボート」のおける中国への罪責感とあわせてみれば、村上は初期の作品から社会や歴史への眼差しを欠かさなかったといえるのではないか。 三作目の「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は題名からしてジョークっぽい感じだ。ニューヨークには炭鉱ならないからだ。村上は扉の裏にビージーズの歌「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の一節を引用して、この題名にも一定のわけがあることを匂わせているが、ビージーズにそんな歌が実際にあったのかどうか、疑わしい。村上は存在しないものを存在するかのように見せかけるのがうまいから。 この小説は、主人公の身辺で次々と人が死んでいくことを描いている。挙句に、主人公自身も、ガールフレンドから殺してあげると宣告される。主人公は驚いたふりをして言う。「嘘でしょ?」 すると「嘘よ」と彼女が言う。そこで、主人公の「僕はためいきをつくかわりに水割を飲んだ」というわけなのである。この辺は、村上らしいところがストレートに出ているところだ。 この次々と人が殺されるのを加藤は、70年代の極左セクトの殺し合いに喩えているが、村上自身にそんな意図があったのかどうか、それはよくわからない。 「カンガルー通信」は、自分自身であることに大きな不満を抱いている男が架空の人間に向かって語りかける話、「午後の最後の芝生」は、自分が求めているのはきちんと芝生を刈ることだけという男の話、「土の中の彼女の小さな犬」は、恋人に振られた男が不思議な女とプールサイドで語り合うという内容、「シドニーのグリーン・ストリート」は、「もし地球のどこかに超特大の尻の穴を作らなきゃならなくなったとしたら、その場所はここ以外にはありえない。つまり、シドニーのグリーン・ストリートだ」と考えている探偵の話だ。この話の中でも「羊男」が顧客となって出てくる。 こんな具合で、それぞれが違った味わいを感じさせる。なおこの文庫版には、文庫には付物といえる「解説」が載っていない。恐らく村上自身の意向なのだろう。彼は日本の自称文芸評論家たちにうんざりしていたようだから、彼らに自分の作品の解説などしてほしくなかったのだと思う。 |
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