今年(2013年)も村上春樹はノーベル賞を受賞できなかった。ここ数年、彼は常にノーベル賞受賞の最有力候補であると世界中の人々に言われ続けてきたし、日本のメディアも彼がノーベル賞を受賞するのは当然のことだと大声で言ってきた手前、毎年のように彼がノーベル賞受賞を逸している事態が信じられないと言った落胆ぶりを見せているが、筆者はそうは思っていない。村上春樹がノーベル賞を貰えないことには、本質的な理由があると考えているからだ。
まず、今年のノーベル賞を受賞したマンロー女史について、ノーベル賞委員会では、たぐいまれな短編小説の作り手だ、というようなキャッチフレーズを言っていたが、村上春樹には、このような気の利いたキャッチフレーズが見当たらない。彼はキャッチフレーズで説明できるほど単純な作家ではないのだ。その複雑なところが、ノーベル賞選考委員会の人々の想像力を超えているのだと思う。村上春樹とノーベル賞とではきわめて相性が悪いのだ。
村上春樹には現代の地球社会の常識を超えるところがある。彼の作品には、暴力やセックスやたばこやアルコールといった不道徳なテーマが充満している。村上の小説に出てくる若者たちは挨拶がわりにセックスをするし、海辺のカフカの少年は自分の母親と、それと知っていながらセックスをする。また、自分の姉かもしれない女性にセックスを迫ったりする。一方、暴力シーンを描くことについては、村上だけの専売特許ではないが、村上の場合には、そうした暴力を否定しているわけではなく、逆に暴力は人間性に根差したものであるかのような書き方をするものだから、ナチス並みの暴力礼賛論者と受け取られかねないところがある。
もっと悪いことに、村上は至る所で喫煙シーンを差し挟み、まるで喫煙を奨励しているようなところがある。筆者はもともと喫煙家で、数年前に禁煙に成功した人間であるが、そのような男が村上の小説の中の喫煙シーンを読むと、自分もついつられて煙草に手を出したくなる。更に悪い事には、村上は子どもにまで煙草を吸わせている。大人が喫煙するのはある意味仕方がないところもあるし、そういうシーンを小説に差し挟むのもある程度許されることかもしれないが、子どもが煙草を吸うシーンは許せない。
まあ、常識人なら当然思いそうなことばかりだ。そんなことばかり村上が小説の中で取り上げるものだから、世の中の常識人から村上が嫌われるのも無理はない。ところで、いまのノーベル賞委員会というのは、どうもそうした常識人から構成されているように思える。そうだとしたら、村上がノーベル賞と無縁なことには、本質的な理由があるというわけになる。
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