村上春樹を読む
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村上春樹訳「ティファニーで朝食を」を読む


訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。

なにしろ女性主人公のホリー・ゴライトリーはあと2か月でやっと19歳になるという設定だし、小説の語り手でホリーの男友達たる青年も、やっと少年期を脱したばかりという雰囲気をたたえている。ホリーはこの青年をいつでも、自分の兄の名で呼んでいるし、青年が自分にむかって恋愛感情を抱いていると感じても、それに対してまともに応えようとはしない。二人は恋人同士になるにはまだ幼すぎる。二人は大人になりつつある、中途半端な時期を生きている者として、描かれているのだ。

だがホリーは普通の少女とはあまりにも違った少女時代を生きてきた。彼女はたった14歳で、自分の庇護者となったテキサスの獣医と結婚関係を結んだのを手始めに、数多くの男と性的関係を持ってきた。それは、兄のフレッドとともに、親の保護から見放されて孤児となり、他人の世話にならねば生きていけなかったという境遇を彼女なりに受け入れた結果だった。

だから小説の中でのホリーは、時には娼婦を思わせるようなきわどい生き方をする人間として描かれることもある。だが彼女の18歳という若さが、その生き方に複雑な陰影を与える。それが語り手である青年と聞き手である我々に、ある危うさのようなものと、その背後に見え隠れする若い女性の未熟ながら輝いているような生き方を感じさせるのだ。

その危うさと未熟な輝きとの感覚が、この小説に独自の色彩感をもたらしている。

小説にはこれといって複雑な筋はない。ホリーを巡って色々な人物が登場し、その多くは最後にはホリーを見捨てて消え去ってしまう。ホリーを妊娠させた男も、ホリーが今までに愛したただ一人の男であったにかかわらず、ホリーが問題を起こして、自分の身に不都合になりそうだと感じると、さっさとホリーを捨てて妻子とともにブラジルに去ってしまう。

だがホリーはそんな自分の運命を嘆いて見せたりはしない。過去は過去として受け入れ、新しい未来を自分の手で生きなおすべく選択するのだ。

その彼女の選択が、青年にはいかにも危うくみえる。彼女は自分自身の生き方を破滅に向かって選択しているのではないか。

「でもね、ホリー」と僕はいった。もっと大人っぽく、もっと保護者っぽくならなくてはと僕は思った。「でもね、ホリー。それは冗談にするようなことじゃないよ。僕らはもっときちんと計画をたてなくちゃ」
「なにさ、偉そうにしちゃって。あなたはそんな分別くさいことを言うようながらじゃないわ。若すぎるし、小物過ぎる。だいたい、あなたにどういう関係があるわけ?」
「何もないよ。ただ君は僕の友達で、心配しているってだけさ。これからいったいどうするつもりなのか、教えてもらいたいね」
彼女は鼻をこすり、天井をじっと見上げて考えをめぐらせた。

ホリーはまだ19歳になったばかりなのだ。それでも、ひとかどの処世哲学を身につけていた。青年のような若すぎる小物にはわからない生き方、自分はそんな生き方が似合った存在なのだ。だから自分は分別臭く貧しい人生を生きるよりは、破天荒で人から理解されなくても、自分の気に入った生き方を生きたいのだ。

「そして坊や、あなたにはわからないかもしれないけど、特別な才覚を頼りにやってきた私みたいな女にとっては、それはまさに命取りの状況なの。ええ、私はランクを落としてまで生きていきたくない。<ローズランド>あたりでウェストサイドのどんくさいやつらを相手にするような、そんなしみったれた生活は願い下げだわ」

ホリーは小説の最後で、単身ブラジルに出国する。その際に、青年にブラジルの大金持ちのリストを作成してくれるように頼む。そのどれか一人を落すつもりなのだ。

実際にはブラジルでは金持ちをゲットすることはできなかった。しかし隣国のアルゼンチンで金持ちのパトロンを見つけることができた。そのパトロンのおかげで、ホリーは引き続き豪華三昧の生活を送ることができるのだろう。

こうした具合で、純粋な青春小説と云うには、多少不純な要素も含んでいるが、大人になりつつある少女が、一人前の生き方に関する哲学を身に着けていく過程は十分にとらえられている。

そうしたまぎれもない人間(この場合には女性)の成長の物語が、この小説を「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」と並んで、20世紀最良の小説のひとつに位置させているのだと、筆者などは感じた次第だ。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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