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「僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなものは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。前に前にと読み手を送っていく内在的な律動感というか・・・」 これは、小沢さんとの対話の中で、文章について村上が述べているところだ。これを読んで筆者は我が意を得たりという気持になった。文学に限らず、言葉というものにとって音楽性がいかに大事かということを、筆者は日頃から漠然と感じていたのだったが、その感じを明確な言葉で表現してくれたからだ。 言葉に音楽性があることは、詩的言語や小説など文学の領域にとどまらない、あらゆる言語表現に共通することだと筆者は思っている。有効なコミュニケーションを行うためには、意味の伝達だけでは不十分で、相手を情緒的に刺激するものが必要だ。それが言葉に内在する音楽性だと筆者は思うのだ。 村上もこの部分に続けて言っているとおり、世の中には読むに堪えない文章というものがいくらでもある。たとえば村上のいうマニュアルの説明書きもそうだ。そうした文章は、意味を伝えられればそれでよいという姿勢の表れだが、そうした姿勢が、意味の伝達そのものまで困難にしている。読むに堪えないと読者が受け取るからだ。 下手な翻訳が、読み手をいらいらさせるのも、同じような事情による。そういう翻訳は言葉の意味にこだわるあまりに、逐語訳的な表現になり、それがいわゆる棒訳につながり、何を言っているのかわからないような日本語になる。そういう文章は、文法的に稚拙な表現に陥っているという以上に、言葉の音楽性に欠けているのだ。 言葉が音楽とつながりがあるというのは、考えてみれば当然のことだ。言葉とは、書かれた文字である前に、発せられた音なのであるから、人はそれを第一義的には耳で受け止め、ということはつまり音として聞き、音の周辺に意味の作用を感じ取るわけなのだ。だからその音の流れが、音楽の音の流れと通底しあうのは、ある意味で当然なわけだ。言葉の芸術としては散文よりもはるかに早く確立された韻文が、音楽的な要素を生命にしていることは、こうした事情を反映している。 こうした事情は、耳で聞くことを前提とした音としての言葉だけではなく、書かれた言葉としての文章についてもあてはまる。人は書かれた文章を目で読むとき、それと意識しないまでも、やはり文章に潜んだ音楽性にとらわれている。そういう場合、人は目で読むだけでなく、心の耳で言葉の音楽性を感じているということができるのだ。 ここまで考えてみたところで、言葉に音楽性があるのなら、民族性もあるという当たり前のことも視野に入ってきた。西洋の音楽と日本の音楽は、色々な点で異なっている。それと同じように、西洋の言葉と日本の言葉も、色々な点で異なった音楽性を帯びている。 たとえば、英語やフランス語など、西欧の言語では、音の強弱が言葉の基本的な単位を構成している。その強弱がリズムを作り上げている。だから西欧の詩の表現は、太鼓の音を聞くような切れの良さを味わいとする場合が多い。 それに対して日本語の音は強弱ではなく高低と長短が基本である。ということは、リズムよりもメロディの要素が強い言葉だといえる。日本語の文章はだから歌うように読めることが肝心なのだ。 このメロディ主体の音のあり方が、日本の言語芸術の中での短詩系の優位という現象を説明する。メロディというものは、どこかでくぎりというものがないと、聞いているものを飽きさせる。和歌や俳句はその区切りを最小限にまとめた形といえる。 これに対して、太鼓はいつまで叩いていても、限界というものがない。リズムが生きている限り、いつまで続いても退屈とは感じられない。西洋の詩が非常に長くなる傾向をはじめからもっていたのは、リズム優位の言語の特質がしからしめたといえなくもない。 こんなわけで、村上のちょっとした発言をきっかけに、文章についての、とりとめのない空想に、しばし耽ってしまった次第であった。 いずれにしても、言葉にとって音楽性は生命の一部をなしている。リズムもメロディも感じさせない言葉は、意味の伝達さえも満足には行えないだろう。 |
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