|
HOME|ブログ本館|日本文化|東京を描く|英文学|フランス文学|宮沢賢治|プロフィール|BBS |
|
小澤征爾さんと村上春樹の対談集の中のグスタフ・マーラーについて語られた部分が刺激になって、さっそくマーラーの交響曲第一番のCDを買ってきて聞いた。それも彼等が特にこだわっていた演奏であるサイトウ・キネン・オーケストラの音だ。たしかに面白い。聞いてみての印象と彼らの発言をあらためて照らし合わせると、その面白さがいっそう楽しい面白さになる。筆者はいままでマーラーなど聞いたことがなかったのだが、今回聞いてみて、今まで聞かなかったことでたいへん損をしたような気持ちになったものだ。 まず最初に受けた印象は、音楽の構成が融通無碍というか、規則性に縛られていないというか、統一性が緩いというか、とにかく19世紀までのヨーロッパ音楽とは明らかに違うところがある、ということだ。ストラビンスキーなどもかなりユニークだとは思うけれど、マーラーのユニークさは並大抵ではない。 ヨーロッパの伝統的な交響曲はソナタ形式など、きちんとした法則性のようなものの上で曲が作られていた。ところがマーラーにはそうした法則性が弱いというか、むしろないといってもよいのではないか。筆者はまだシンフォニーの第一番を聞いただけなので、えらそうなことは言えないが、ほかならぬ小沢さんもそういっているのだから、筆者の印象は間違ってはいないのだろう。 彼等は、マーラーのユニークさについて、第一番の第三楽章を聞きながら指摘している。 この楽章は、最初に葬送の厳粛な雰囲気のメロディで始まって、途中さまざまなテーマが入れ替わり立ち代わり出てきた後、最後に葬送のテーマで締めくくるというものだ。その最初のところで、葬送の音楽が突然ユダヤの民謡のようなメロディに変る部分を二人は次のように評している。 村上「いつも思うんですが、この変り方、破天荒というか、普通じゃないですよね」 小澤「ほんとにそうだね。葬送の音楽のあとで、こんなジューイッシュのメロディが出し抜けに出てくる。組み合わせとしてはもう、とんでもないことです」 たしかにそうなのだ。これは第四楽章でも同じことで、激情的でそれこそ嵐を連想させるような激しい音楽と、パストラルなのどかさを感じさせる音楽がもつれあって展開している。統一性というよりも、個々のパートがそれぞれに自分を主張しているような遠心的な傾向を感じさせる。 遠心的という点では、それぞれの楽器の音が、全体の調和を嘲るように、自分自身の音を主張している事にもそれは表れている。小澤さんはそれを、個々の楽器が歌っていると表現しているが、こうした演奏方法は、19世紀以前には考えられなかったことらしい。バーンスタインやカラヤンなどがマーラーを振ると、個々の楽器の個性をできるだけ抑えて、全体としての融合を重んじた演奏になるのだが、マーラーの本当の意図は、全体の調和なんかではなく、個々のパートに個性を主張させることにあったというのが、小沢さんの解釈のようだ。実際、サイトウ・キネンの演奏では、個々の楽器や個々の部分が最大限自分たちの個性を主張しているように聞こえる。 その辺のところを、二人は次のように評している。 村上「マーラーって、楽器のそれぞれの音がしっかり聞こえてこないと、聞いていて面白くないですよね」 小澤「まったくそのとおりです・・・細かいところがきちんと聞こえないと、みんな納得しません」 また、曲の構成に統一性がなく、個々の部分が無造作に絡み合っているところについては、二人は次のように言っている。 村上「まったく関係のないモチーフとか、場合によっては正反対の方向性を持ったモチーフとかが、同時進行的に出てきますよね。ほとんど対等に」 小澤「それがごく近いところで接近して進行したりする。それでややこしく聞こえるんです。勉強していてもときどき頭がこんがらがってくるんですよ」 村上「聞いている方も、聞きながら曲のストラクチャー全体を見定めようとすると、かなり難しいことになります。分裂的というか」 ことほどさように、彼等のような人までが舌を巻くのであるから、筆者のような純粋な素人の耳が、マーラーを聞いて面白いと感じるのにも相当の理由があるのだろう。いわゆる正統派のクラシック音楽とは違うのだ。 その非正統性というか、反正統性のようなものの内実を、村上は次のように総括している。 村上「思うんですが、この一番シンフォニーの第三楽章を聴いてもよくわかるように、マーラーの音楽には実にいろんな要素が、ほとんど等価に、時には脈絡なく、時には対抗的に詰め込まれていますよね。ドイツの伝統的な音楽から、ユダヤの音楽から、世紀末の爛熟性から、ボヘミアの民謡から、戯画的なものから、滑稽なサブカルチャーから、シリアスな哲学的命題から、キリスト教のドグマから、東洋の世界観まで、とにかく雑多にすし詰めにされている。どれかひとつだけを抜き出して中心に据えて、ということができませんよね。ということはつまり、何でもあり・・・というと言葉は悪いんですが、非ヨーロッパ系の指揮者にも、そこに自分なりの切口で食い込んでいける余地は十分にある、ということなんでしょうか? そういう意味でマーラーの音楽はユニヴァーサルなんじゃないか、世界市民的なんじゃないかという気もするんですが」 こうしたマーラーのユニヴァーサルな性格の淵源を村上は、マーラーが世紀末のウィーンの周辺部に生まれた、しかもユダヤ人だったという点に求めている。当時のウィーンはヨーロッパの中心都市であり、コスモポリタンの根拠地であり、文化的に爛熟していた。そこに田舎者でしかもユダヤ人であるマーラーが侵入してきて、時代の空気を自分なりに吸い込み、そこから独特の音楽を生み出した。マーラーがある意味で、世界の中心と、世界の周縁とを同時に生きていたおかげで、彼の芸術は真に独創的で、しかもユニヴァーサルなものになれた、そう村上はいうわけなのだ。 当時のウィーンには、クリムトやエゴン・シーレも活躍していた。小澤さんは彼らの芸術に、マーラーに通じるものをみているが、たしかに当時のウィーンがもっていた雰囲気が、こういった芸術家たちを育む地盤となったのかもしれない。 またマーラーの同時代人には、カフカ、プルースト、フロイトといった人々がいて、それぞれの分野で独特の道を切り開いたが、彼らもやはりユダヤ人だった。彼らは皆、ヨーロッパ文化の既成の構造に周縁部から揺さぶりをかけることで、新しい文化を創造した。マーラーもその一員だったというのが村上の評価である。 ところで筆者は、第一番の第三楽章を聴いていて、いきなり出てきたと二人がいっているジューイッシュなメロディに聴き耳を立てて、どこかで聞いたことがあるなと思った。そう、「屋根の上のバイオリン弾き」の中で歌われたメロディと似ているのだ。そういえばこのミュージカルは、ウクライナのユダヤ人をテーマにしたものだった。だからジューイッシュなメロディが出てくるのは当然といえる。 そのメロディは、ミュージカルに出てきたウクライナのユダヤ人社会では、自分たちの民族のアイデンティティにかかわるものだった。マーラーはそれを、ユニヴァーサルな道具として使っているわけだ。 |
|