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村上春樹の作品「アンダーグラウンド」は、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件で被害に遭った人々から聞き出した体験談のインタビュー記録である。事件の現場となった五本の電車ごとに、それに乗り合わせて被害に遭った人々のインタビュー記事を集め、それらを読みあわせることで、事件の全体像が浮かび上がってくるような体裁になっている。 村上がインタビューした人の数は、直接被害に遭った人々とその家族合わせて62人にのぼる。村上はこれらの人々との対話にほぼ一年と云う膨大な時間をかけた。その結晶としての記録は講談社文庫版で、2段組みにしてもなお800ページ近くにもなる。こんな膨大なインタビュー記事を、村上は何故書く気になったのか。というより、何故こうした人々と深いかかわりを持とうとする気になったのか。 村上は、この事件が起きたころはアメリカで暮らしていた。アメリカ暮らしは数年にわたる長いものだった。事件当日は、たまたま日本に戻っていて、この事件のことは日本のテレビや新聞で直接見聞したが、オウム真理教をめぐる深い事情については、日本から遠く離れて生活していたこともあって、よくわからなかったという。 そのさらに数か月後に日本に帰国した村上は、あるとき何気なく新聞の投書を読んで、愕然とさせられた。 その投書はサリン事件の被害者の妻からのものだった。彼女の夫は通勤途中サリン事件に遭遇してひどい目にあった。急性症状はなんとか克服したが、後遺症が残り、仕事が思うようにできなくなった。会社は最初の頃は夫に同情してくれたが、時間がたつにつれて、上司や同僚がちくちくと嫌味をいうようになった。夫はそんな雰囲気に耐えられずに、ほとんど追い出されるようにして会社を辞めた。 村上はこの投書を読んで愕然とした。「不運にもサリン事件に遭遇した純粋な<被害者>が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、なぜそのようなひどい<二次災害>まで受けなくてはならないのか」そう思った村上は、「その手紙を書いてきた女性たちのことを知りたいと思うようになった。その夫たちのことを知りたいと思うようになった。個人的に。そしてかくのごとき二重の激しい傷を生み出す我々の社会の成り立ちについて、より深く事実を知りたいと思うようになった」 こうした熱情ともいえる感情に導かれながら、村上は被害者たちとの長い対話に踏み込んだわけなのだ。 もうひとつ、自分をこの対話に駆り立てた事情があった、と村上はあとがきの中で書いている。それは一言でいえば「日本と云う国についてもっと深く知りたかった」ということだ。村上はかなり長い間外国暮らしをして、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」から「ねじまき鳥クロニクル」に至る作品を外国で書き上げ、8年ぶりくらいに日本に帰ってきた。そしてこれからは日本にとどまって、日本という国のために何かをしたいと考えるにつけ、自分がこの国のことを本当にわかっているのか自信が持てなくなった。 そんな折に地下鉄サリン事件が起こった。またその年の正月には神戸の大地震が起こっていた。この二つのカタストロフは日本人の考え方に何か重大な影響を与えたのではないか。またこの事件への人々のかかわりを見ることで、日本人というものの本質が見えてくるのではないか。 地下鉄サリン事件についての長期取材は、「<日本についてより深く知る>ためのひとつの手立てになった」というのである。 村上は虚心坦懐な態度で人々の語るところを聞いたという。その聞き方の中にはあるいは驕りのようなものが潜んでいて、それがもしかして相手の心を傷つけてしまうのではないかと恐れながら。 そんな村上に、被害者たちは自分が体験した生々しい現実を話してくれた。その内容は、マスメディアによって伝えられてきた情報とは全く違っていた。マスメディアは自分たちの流儀で一次情報を加工し、被害者たちが自分の肉体で受けた傷とは全く異なったものを読者に提供していたにすぎないのだ。 それに対して村上は、「肩の力を抜いて、人々の語る物語をあるがまま、に受け入れるようになった。私はそこにある言葉の集積をそのまま飲み込み、しかるのちに私なりに身を粉にして<もう一つの物語>を紡ぎ出していく蜘蛛になった」こういうのだ。 書名の「アンダーグラウンド」が、サリン事件の舞台になった地下鉄をイメージしていることはいうまでもない。この事件は、地下の、閉じられた、暗い、じめじめとした、息苦しい空間の中で起きた。人々はそうした息づまる空間の中で、突然わけのわからぬ暴力に見舞われ、理由もなく殺されたり、ひどい目に遭わされたのだ。 アンダーグラウンドはまた「心の闇」である自分自身の内なる影の部分をもイメージしている、と村上はいう。それは普段「我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている」部分だ。村上はこの闇に光をかざすことによって、日本人の内面に潜んでいる、日本らしさの核のようなものに突き当たりたいとも考えたようなのだ。 |
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