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作家村上春樹にとってオウム真理教事件というのは、特別な意味をもったらしい。この事件が起こったとき彼はアメリカにあって、長編小説「ねじまき鳥クロニクル」を執筆中で、事実経過をリアルタイムで追うことはなかったというが、帰国するやかなりの時間を割いて、オウム事件の裁判を傍聴したり、地下鉄サリン事件の被害者に対して、膨大な時間に上るインタビューを行ったりした。 村上は、被害者に対するインタビューを分厚い一冊の本にして上梓したが、その目的は、「明確な一つの視座を作り出すことではなく、明確な多くの視座を<読者のためにそしてまた私自身のために>作り出すのに必要な「材料」を作り出すことにあった」という。そして「それは基本的には、わたしが小説を書く場合に目指しているものと同一である」ともいう。 サリン事件の被害者にとっては、オウム真理教と云うのは、何の前触れもなく襲い掛かってきた<正体不明の脅威>である。その脅威に直面した人々が抱いた恐怖や憎しみについて、一つ一つ丁寧に腑分けしていくことによって、現代の日本社会に生きている人々の様々な視座を浮かび上がらせることができるのではないか、そしてその視座は、作家である村上にとって、現代の日本社会とそこに生きている人々を解釈する際に、大きなよりどころを提供してくれるのではないか、そのような予感が、彼をオウム真理教事件にのめり込ませたのだと思われる。 被害者のインタビュー集「アンダーグラウンド」では、村上は極力インタビュアーとしての発言を控え、長い間ひたすら相手に喋らせるという態度をとった。またオウム側の視点については一切排除したという。被害者の生々しい思いを、其の生々しさの層において生き生きと伝えたかったからだろう。 この本を書いたのちに、村上は当然の動きとして、今度はオウム事件の加害者たちへのインタビューを行い、彼らの生の声なり、正直な思いなりを、そのままの形で紹介したいと思うようになった。それもまた、先の場合と同様に、「明確な多くの視座を作り出すのに必要な<材料>を作り出す」という目的のもとで。 この本は、以上のような背景を持っているのだが、実は筆者は、「アンダーグラウンド」を読むより前に、まずこの本を読んだから、村上のオウム理解を正しく解釈できていないかもしれない。 ともあれこの本を読むと、オウム事件と云うものが、現代日本社会にとって全くの偶然的な出来事で、起きなくてもすんだかもしれない非本質的な性格の出来事、したがって現代日本社会に生きる人々にとっては外在的な出来事なのであり、巻き込まれた人にとっては気の毒な偶発事であったが、多くの人にとっては直接・間接にかかわりをもたない他人事なのであった、というような総括があてはまらない事件なのだということを思い知らされる。 村上にとって、オウムの問題と云うのは、現代社会が内在的に孕みこんだ問題なのであり、したがってオウム事件とは起こるべくして起こった、必然性を帯びた事件なのだ、ととらえられるようなのである。 それはどういうことかというと、今の日本の社会には、社会からはじき出されてなかなか溶け込めないと感じている人々を、やんわり受け入れてやる受け皿がないということだ。だから社会に親和感を持てない人々が、オウムのようなところに流れていく、そういうことが実際としてある。オウムに入った人々の多くは、反社会的な犯罪をしたことは悪いとは分かっているが、自分がオウムに入って、そこで過ごした時間のことは後悔していないという。彼らにとっては、オウムと云う集団は、現世で得られなかった心の平安を与えてくれる、極楽のような世界と受け取られているわけだ。 だがこうした組織と云うものは、いつかは爆発するようになっている。サリン事件をはじめとしたオウムの犯罪は、そうした爆発の表れだ。そこのところのメカニズムを、村上と河合隼雄の対談が読み解いている。河合は、「あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなすごい悪い奴がいないと、うまくバランスがとれません」といっているが、そうしたメカニズムが反社会的な行為に走っていくところは、ヒットラーのナチズムとよく似ているという。 ナチズムは悪の権化と云われるくらい、悪が凝縮されたものだ。だがこの悪と云うものをどうとらえるかは、なかなか難しい問題だと村上は言う。悪は確かに人を殺したり、むき出しの暴力を振るったりはする。そのことは誰でも概念的には分かっているような気がしている。しかし悪の本質は何なのかとか、悪の全体像と云うことになると、人はなかなか思い描くことが難しい。悪の一面は分かっているような気がしても、その全体像はなかなか見えてこないのだ。こう村上は言う。 「これは昔からいわれていたことだけれど、悪のための殺人って非常に人数が少ないです。それに比べると善のための殺人というのはものすごく多い。戦争なんかそうです。だから善が張り切りだすとすごく恐ろしい」 オウムの犯した殺人も、この善がさせた行為だともいえる、そう村上はいいたいようだ。オウムの信者たちは例の「ポア」を正当化するときに、「ポアされることによってこの世の悪縁から解放され、来世でもっと高まることができるんだから、むしろその人にとっては救いになることだ」というような言い方をするが、これは善が悪の言い訳にされることの一つのいい例だ。 このインタビューを呼んでいると、村上は結構頻繁に合いの手を入れているし、時には相手の考えを批判するような言葉も吐いている。通常のインタビューとは異なるこうしたやり方を取ったのは、オウム信者の言うことをそのままだらだらと書き写しているだけでは、インタビューの中身がかなり一方的で、教条的なものにおちいるだろうと恐れたからだという。 個々のインタビューを読んでいると、オウム信者の一人一人は、やはり大きな問題を抱えた人たちなのだなと感じさせられる。家族とくに親との関係に問題があったり、友人を作るのが苦手であったり、いろいろな要因から、この世に居心地の良い場所を得られなかった人々という印象を受ける。そんな要因を抱えながら立派に生きている人ももちろんいるわけだが、彼らがそんな人々とは異なってオウムに飛び込んだ経緯はさまざまである。一つ言えることは、彼らがあまり自分の意思を持っていないことだ。つまり特別な意味あいで依存性が強いということかもしれぬ。その依存性の強さが、教祖をはじめとした教団の組織に自分を全面的に預けてしまおうという態度につながる、どうもそう読み取れるようなのだ。 オウム事件のあとでも、教団が完全に解体したわけではなく、多くの信者がそのままに残って、オウムの残党のように言われているわけだが、彼らにはほかに行くところがないのだ。 彼らにとって行くところがないという事態は、今日の日本社会の閉塞的なあり方を表しているのではないか。「日本社会というメイン・システムから外れた人々<特に若年層>を受け入れるための有効で正常なサブ・システム=安全ネットが日本には存在しないという現実は、あの事件のあと何一つ変わっていない」と村上はいうのだ。 なおこの本の題名「約束された場所で」は、アメリカの現代詩人マーク・ストランド(Mark Strand)の詩からとったものだという。その部分を、村上自身が次のように訳している。 ここは、私が眠りについたときに 約束された場所だ 目覚めているときには奪い去られていた場所だ 筆者はまだ、この詩人を読んだことがない。そのうち読んでみたいと思う。 |
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