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村上春樹「意味がなければスイングはない」を読んで


村上春樹の音楽評論「意味がなければスイングはない」は、「ポートレイト・イン・ジャズ」以上に本格的な音楽評論だが、評論の対象はジャズ・ミュージシャンにとどまらず、クラシック、リズム&ブルース、フォークソング、ポップソングという具合に幅広い分野から10人を選び出している。いずれも村上春樹好みのミュージシャンばかりのようだ。

ジャズ・ミュージシャンからは三人を取り上げている。ピアニストのシダー・ウォルトン、トランペッターのウィンストン・マルサリスと並んでここでもスタン・ゲッツを取り上げているから、村上春樹のスタン・ゲッツ好きは相当のものだと受け取れる。

ウォルトンにしてもマルサリスにしてもジャズの巨人とはいえないどころか、どちらかと云えばマイナーといってもよいミュージシャンだ。そんなミュージシャンと並んで、スタン・ゲッツのようなミュージシャンに何故こうも強くこだわるのか、筆者は不思議にも思ったが、その不思議を解くカギを、村上自身が次のような文章の中で語っている。

「音楽として純粋に優れていればあとのことはどうでもよろしい、という人もいるかもしれないし、それはもちろん正論なのだが、僕にはーー小説家だからということもあるかもしれないけれどーー音楽を媒介にして、その周縁にある人々の生き方や感情をより密接に知りたいという思いがあるし・・・そんな音楽の聴き方があってもいいだろう」

つまり村上は作品と並んで、その後ろにある作者の顔が気になるタイプの人らしいのだ。

こうした視点から見ると、確かにスタン・ゲッツは波乱万丈ともいえる多彩な人生を生き、その人生の中から彼一流のジャズを生み出した。ゲッツの人生のきらめきのようなものが、彼の音の中にもこだましている。そんなところが村上には非常に魅力的に映るのだろう。

この本の中で筆者がもっとも興味深く読んだのは「ゼルキンとルービンシュタイン」だ。二人とも中欧乃至東欧のユダヤ人社会で生まれ、小さい時から孤児同様の境遇に育ち、素晴らしい才能を評価されて偉大な音楽家への道を進んだ。

二人の運命には共通したところがあるが、音楽の質という点では非常に異なったものがある。一言でいえばルービンシュタインは自由奔放でナチュラルな演奏なのに対し、ゼルキンのほうはストイックで精神性を感じさせる演奏だ。

こうした演奏のスタイルは、彼らの人生に対する姿勢とパラレルなものだ、そう村上はいう。彼らの生き方の違いや世界観の相違が音楽の創造行為のなかにも現れているというのだ。

こう指摘されると、筆者などは音楽の素人ながら、ジャズやクラシックの演奏を、ただ音として聞くのではなく、それを演奏する人の人間性に溢れた行為として聞けるような、そんな耳を持ちたいと思うのだ。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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