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大麻を吸う:村上春樹「1Q84」を読む


小説「1Q84」の中で村上は主人公の天吾に大麻を吸わせている。村上は登場人物に煙草を吸わせるシーンを小道具の一つとしてよく使ったが、大麻を含めて麻薬といわれるものをとりあげたのはこれが初めてだ。なぜそんなことをしたのか。大麻は言うまでもなく違法ドラッグであるし、それを吸うことの可否は道徳以前の問題だ。それなのにあえて世論に挑戦するような形で、主人公に大麻を吸わせる。

大麻を吸うシーンは、父親の入院先がある千倉を舞台にしておこる。日頃父親の面倒を見てくれている三人の看護婦と一緒にうさばらしのパーティをやったあと、三人の中で一番若い安達クミが、天吾を自分の部屋に誘って、そこで二人で大麻を吸うのだ。

大麻と聞いてちょっぴり驚いた表情を見せる天吾に向かって、安達クミはこういう。「ちょっと調べてみたけど、医学的に見ても危険性は殆どない。常習性はないとは言い切れないけど、煙草やお酒やコカインに比べれば遥かに弱いものだよ。依存症になるから危険だと当局は主張しているけど、殆どこじつけだね。そんなこといったらパチンコのほうがよほど危険だ。二日酔いみたいなものもないし、天吾くんのアタマもよく発散すると思うな」

これを読んで筆者が思い出したのは、ボードレールの「人口の天国」だった。この本の前半でボードレールは、ハシーシュが人間の精神にもたらす効果について議論しているのだが、彼はハシーシュが人間の精神的な健康に有害だとする世間の意見にはくみせず、かといってハシーシュを推奨しているわけでもない。またそれが倫理上どのような意味を持つのかについても言及しない。あくまでも中立的な立場から、つまり価値を巡る判断を停止した状態で、ハシーシュ吸引が人間に及ぼす効果を描写しているに過ぎない。

ハシーシュが引き起こす効果についてのボードレールの描写は極めてリアリスティックであり、実際に吸引の経験がなければ書けるものではないと、誰もが思いたくなるところだが、ボードレール自身はハシーシュを吸引したことがないと断言している。バルザックやテオフィル・ゴーティエなど実際の吸引者からの見聞をもとに書いたと仄めかしている。だがそれにしてはあまりにも、リアルなのだ。

村上の描写もかなりリアルだ。村上の場合には、もしかしたら実際に大麻を吸った経験があるのかもしれない。しかし経験がなくても村上なら、これくらいの描写はできるだろう、という気はする。ボードレールと同じように。

ハシーシュの効果について安達クミは、このように概括する。「ちょうどいい頃合いで、安心できるわけ。自分が守られている気がするの。まるで空気さなぎにくるまれているみたいな気分だったな。」

ボードレールもこれと同じようなことを書いている。「アシーシュの引き起こす感覚の中でかなり大きな位置を占めるのは、心優しさである。神経の緊張が緩んだために起こる、柔らかく、ゆったりした、黙々とした心優しさだ。」(安東次男訳)つまり緊張の解除と、それがもたらすやさしさ、安心感だ。してみればハシーシュには基本的に精神鎮静作用があるのだろうと思わせる(というのは、筆者には吸った経験がないから)。

天吾の場合には、次のような精神状態が現れた。「秘密のスイッチをオンにするようなかちんという音が耳元で聞こえ、それから天吾の頭の中でなにかがとろりと揺れた。まるで粥を入れたお椀を斜めに傾けたときのような感じだ。脳みそが揺れているんだ、と天吾は思った。それは天吾にとって初めての体験だった 〜脳みそをひとつの物質として感じること。その粘度を体感すること。フクロウの深い声が耳から入って、その粥の中に混じり、隙間なく溶け込んでいった」

激情ではなく平安の感情がここでは支配している。ハシーシュのもたらす世界では、自分を対象化して眺める視線と、それでもなお、その視線に一体化しようとする粘着性がからみあっている。

やがて天吾と安達クミは狭いベッドの上で裸のまま並んで寝る。そのうちに安達クミが天吾の上に覆いかぶさり、身をよじり、陰毛を天吾の太腿にこすり付けてくる。「豊かな濃い陰毛だ。彼女の陰毛は、彼女の思考の一部みたいだった」しかし天吾は性欲を感じない。

「勃起はない。それがやってくるのはもっと後のことだ。もっと後という言葉は、彼に永遠を約束していた。永遠はどこまでも伸びる一本の長い棒だ。椀がまた傾き、脳みそがとろりと揺れた」

安達クミは、夜が明けたらここを出ていくんだよ、と天吾にいっていた。「出口がまだふさがれないうちに」 天吾はその言葉通り、翌日の朝目覚めると、まだ寝ている安達クミをそのままにして、東京に戻る決心をする。

「ここは猫の町だ。ここでしか手にすることのできないものがある・・・しかしここで手にするすべてのものにはリスクが含まれている。安達クミの言葉を信じるなら、それは致仕的な種類のものだ」

こうしてみると、ハシーシュのもたらす世界は、猫の町が与えてくれる致仕的な種類のものの隠喩ともいうべきものなのだろう。猫の町同様に、その世界に入っていくことはたやすい、しかし無事に出てくる保証はない、というわけか。




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