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奇妙な探偵牛河:村上春樹「1Q84」 |
「1Q84」には、「ねじまき鳥クロニクル」の中で出てきた奇妙な探偵牛河が再登場する。しかもかなり重要な役回りでだ。彼は「さきがけ」というカルト集団のリーダーに見込まれて、様々な人間の身辺調査などをしていることになっているが、やがては、青豆と天吾にとって最も危険で脅威的な存在へと高まっていく。実際この作品のBOOK3では、青豆、天吾と並んで、牛河も主人公の一人に列しているのだ。 牛河は「ねじまき鳥クロニクル」の第三部で、いきなり主人公の前に現れる。身長は150センチばかりで、むっくりと蛙のように太って、頭は禿げており、話すと上唇がめくれて、煙草の脂で黄色く染まった乱杭歯が見えた。「僕がこれまで出会った人間のなかでも、間違いなく一番醜い何人かのひとりだった。ただ容貌が醜いというだけではなく、そこにはなにかねっとりとした、言葉では形容のできない不気味さがあった」 「ねじまき鳥クロニクル」の中で牛河は、失踪した僕の妻の兄綿谷ノボルの代理人として登場したのだった。綿谷は牛河を通じて、妹の捜索をあきらめろといってきたのだ。当然ぼくはそんな申し出には従う気はないし、牛河のことをまともに相手にはしない。牛河は自分の努力があまり功を奏さないことに苛立つが、どうした訳かあっさりと引き下がってしまうのである。 その牛河が、ねじまき鳥の主人公の夢想の中で現れる。ただし人間の姿ではなく、犬の姿でだ。体はずんぐりとした黒い犬で、首から上だけが牛河なのだ。犬の牛河はいう、「ほら、見てくださいな。どうです、頭がふさふさしているでしょう。実は私ね、犬になったとたんに毛が生えてきましてね。いやいや大したもんです。キンタマだって前よりずっと大きくなったし・・・メガネだってもうかけてないでしょう。服だって着る必要ありません・・・もっと早く犬になっておけばよかったんです。どうです、岡田さん、一つ犬になってみませんか」 すると、やはり尻に尻尾をつけた加納マルタが「一つ残っていた緑色の角砂糖を手にとって、犬の顔に思いきり投げつけた。角砂糖は牛河の額に音を立てて当たって、そこから血が流れ出して牛河の顔を黒く染めた。血は墨のように真っ黒だった。でも牛河はとくに痛くもないようだった。彼はそのままにやにやと笑いながら尻尾を立て、何もいわずにどこかに行ってしまった。確かに彼の睾丸は異様なほど大きかった」 「1Q84」の中で初めて登場した時にも牛河は天吾からあまりいい印象は持たれなかった。というより一層悪い印象を与えた。ねじまき鳥の頃より歳をとったせいか、風貌は老人臭くなっていた。頭のてっぺんは禿げあがって扁平な丘のようだったし、その周りに生えている毛は陰毛を思わせた。服装もだらしのないかぎりで、「第一印象を正直に語るなら、牛河という男は天吾に、地面のくらい穴から這い出てくる気味の悪い何かを連想させた。ぬるぬるとした正体のわからない何か、本当は光の中に出てきてはならない何かだ」 牛河の目的は、天吾にはいまひとつわからなかった。牛河は天吾の才能を見込んで奨励金のようなものを与えようと申し出たりするが、それが天吾と接触するための言い訳でしかないことは、天吾にはすぐにわかった。天吾はそれを拒絶する。 この段階では牛河は、教団のリーダーに命じられて、ふかえりにかかわりのある人間をマークしていたのだということが後でわかる。そのリーダーが青豆によって殺された後は、牛河は教団から青豆を捕まえるように命令されていた。それが命のかかった命令であることは牛河には十分わかっていた。 こうして牛河は、青豆の行方を追って、青豆とかかわりの深いと思われる者をしらみつぶしに捜査する。捜査の進展にともなって、青豆の安全圏は次第に狭まっていく。牛河はそれなりに有能な探偵なのだ。 牛河は、自分なりの捜査を通じて、青豆と天吾がつながっていることに気付いた。彼らは単につながりがあるだけではない、今現在互いに求めあっている、そう直感した牛河は、天吾の住んでいるアパートの一室に部屋を借り、そこを拠点に天吾の動向と、青豆の接近を待ち伏せる。 ふかえりはその時、天吾の部屋にひとりでいたが、牛河という異分子が近づいてきて、自分たちの動向を見張っていることを感じとると、その部屋を出ていく。その様子を牛河は隠しカメラのレンズを通して追跡する。振り返ったふかえりは、隠しカメラのレンズ越しに牛河の顔を凝視する。ふかえりによって凝視されていることを感じた牛河は、体中がぞっとするのを覚える。 牛河もまた、青豆を追っているうちに知らず知らず、あちら側の世界に移動してしまうのだ。牛河もまた、ついに二つ並んだ月を見るに至るのである。 「夢を見ていたのでもないし、目の錯覚でもなかった。大小二つの月が、葉を落したケヤキの上にまぎれもなく浮かんでいる。・・・昨夜からじっと動かずにそこに待ち受けていたみたいに見える。彼らにはわかっていたのだ。牛河がここに戻ってくることが・・・月たちはその沈黙を共有することを、牛河に求めていた」 これは、青豆のアパートの前にある小公園の滑り台の上で、牛河に訪れた事態だった。牛河が二つの月を見た直前には、天吾が同じ場所で、やはり二つの月を見ていた。牛河は天呉にあまりにも深くかかわりあううちに、天呉の住んでいる世界、つまりあちらの世界にはまってしまったわけなのだ。 牛河の見た月は、牛河に対して、沈黙を共有するように求めていた、しかし牛河は、沈黙を守ることができなかった。牛河が自らのいのちで購わなければならなかったのは、沈黙を守れなことの罰なのだ。 ある夜牛河は、下着姿で寝袋にくるまって寝ているところを、誰かに不意打ちをくらう。くらわしたのは田丸だ。牛河の登場に危険を感じた青豆が、田丸に牛河の処分を依頼していたのだった。 田丸は牛河に一撃をくらわし、気を失ったところで寝袋から引きずり出し、後ろ手で縛って畳の上に俯けに転がした。そして目覚めた牛河に拷問を加える。牛河は何とか命を助かりたいと、田丸の尋問に何もかも洗いざらい答えるが、結局助かることにはならなかった。田丸は牛河の頭にビニール袋をかぶせると、その根元をひもで結んだ。 「牛河の縛りあげられた丸い体躯が、地上に放り投げられた巨大な魚のように畳の上で激しくのたうつのを、タマルは目の隅で見ていた。身体が後ろにそる形に縛っていたから、どれだけ暴れても音が隣室に届く心配はない。その死に方がどれほど苦痛に満ちたものか、彼にはよくわかっていた・・・ほのかな小便の匂いがした。牛河がもう一度失禁したのだ。膀胱が今度は完全に開いてしまった。責めることはできない。それだけ苦しかったのだ」 そんな牛河をみて田丸はうそぶく。「シェイクピアが書いているように・・・今日死んでしまえば、明日は死なずにすむ」 牛河は生き続けるためには邪魔になるようなことを、あまりに多く知りすぎたというわけだ。 |
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