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苦悩としてのセックス:村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 |
村上春樹は小説の展開のきっかけとしてセックスシーンをよく使う。大江健三郎などの世代と比較して、その描写は生々しいものだ。日本文学が大胆で開放的になってきたことの現れだと思うが、この(セックスの解放という)プロセスに、村上自身大きく寄与していることも明らかだ。 村上のセックスの描き方は、デビュー作の「風の声を聴け」以来、非常にマテリアルな感じがした。マテリアルとはスピリチュアルに対立するものとしての、ある種の概念装置だ。村上の小説に出てくる男女たちは、あたかも排泄をするような感じで、気軽にセックスをする。そこが身体本位でマテリアルなのだ。 ところが、「ねじまき鳥クロニクル」に出てくる人物たちは、主人公の僕を含めて、やたらとセックスしたりはしない。僕は夢の中で何度かセックスの妄想を抱くが、現実の女性と現実のセックスをするのは、たった一度だけだ。ましてほかの登場人物たち(その多くは女性たち)はほとんどセックスしない。妻のクミコという女性は、夫である僕の求めを拒み続けている。 だから僕が性的欲求不満に陥って、夢の中でその不満を解消するために、何度もセックスをし、射精をするのだと考えることもできる。 だが僕の性欲はそう簡単なものではない。僕がセックスを夢に見るとき、たしかに射精はするが、その限りで肉体的な快楽は味わうが、心からセックスを楽しんでいるという実感はない。むしろセックスをすることは、僕の苦悩の延長上にある行為として描かれている。僕にとってセックスとは苦悩の一つの形なのだ。 その苦悩は、僕が妻のクミコを失い、彼女の不在に苦しみながら、その不在の理由も彼女を取り戻すことの是非もわからないでいる、僕の中途半端な精神状態に淵源している。僕はなぜ生きているのか、生きることの、その意味がわからないところに深い苦悩が生じる、生きることの意味には性的に交わることの意味も含まれている。だから存在をあげて交わる喜びに耽ることができないという事情が、僕に深い苦悩をもたらす。 「僕は自分がもう2か月近く誰とも性交をしていないという事実に思いあたった。クミコは自分でも手紙に書いているように、僕と寝ることをずっと拒否していた」 僕にとって、妻からセックスを拒絶されることは辛いことだったに違いない。だからといってほかの女性を相手に現実にセッスクすることはできない。セックスは僕にとって意味のある行為でなければならない。 苦悩は多くは何物かの不在から発する。セックスの不在は苦悩の現前につながる。僕はセックスできないことによって、人間としての自分のあり方に欠陥が生じているのを感じるのだ。 そんな事情が、僕に頻繁にセックスの夢を見させるのだろう。 「彼女は僕の体の上に跨るように乗り、硬くなったままの僕のペニスを手に取るとするりと彼女の中に導いた。そして奥の方まで入れてから、ゆっくりと腰を回転させ始めた。彼女の体の動きに呼応するように、淡いブルーのワンピースの裾が、僕の裸の腹と脚の上を撫でていた。ワンピースの裾を広げて僕の上に乗っている加納クレタは、まるで柔らかい巨大なキノコのように見えた」 このシーンは、僕の夢の中で起こったことではあったが、僕の夢の中に登場した加納クレタは非現実的な妄想に過ぎないわけではなく、何らかの実体性を帯びていた。つまり僕の夢の中に、加納クレタの霊魂が忍び込んでいるのだ。 その加納クレタの霊魂がいつの間にかほかの女の霊魂にすりかわる。僕の腹の上にいたクレタが、別の女にすりかわいる。その女がクレタとは別の声でこういう。 「何もかも忘れてしまいなさい・・・それは電話の女の声だった。僕の体の上に乗って、今僕と交わっているのはあの謎の電話の女だった。彼女はやはりクミコのワンピースを着ていた。僕の知らない間にどこかで加納クレタとその女とが入れ替わってしまったのだ」 この見知らぬ女が、実は妻のクミコの別の姿であったことについては、小説の最後のところで明かされる。 しかしこのシーンのあとでも、セックスを巡る僕の渇きと希求はずっと続いていく。僕は時折クミコがほかの男と交わっているところを夢に見たり、幻想にみたりする。 「ときどきそれらの服を見ながら、僕の知らないどこかの男がクミコの服を脱がせていくところを想像した。その手が彼女のワンピースを脱がせ、下着を取っていくところを頭に思い浮かべた。その手が彼女の乳房を愛撫し、脚を開かせているところを思い浮かべた。僕はクミコの柔らかな乳房や,白い腿を目にし、その上にある誰か別の男の手を目にすることができた。僕はそんなことを考えたくなんかなかった。でも考えないわけにはいかなかった。なぜならそれはおそらく実際に起こったことだからだ。そして僕はそのイメージに自分を馴らさなくてはならないのだ。現実をどこかに押しやってしまうわけにはいかない」 ところで主人公の僕は、第三部でナツメグ母子と出会い、彼女の事業に協力する羽目になる。協力の中身は詳細にされていないが、中年女性を相手に性的遊戯をすることであるらしいと、ほのめかされる。 「僕は勃起したくはなかった。それはあまりにも意味をなさないことであるように僕には思えた。でもそれを止めることはできなかった」 僕は女性たちの性的な満足を満たすために、男の娼婦を演じるようになったのだ。無論僕はそこに何らの意味をも見出さない。それはただのビジネスだ。僕の本質とはかかわりない。 セックスとはやはり存在をかけた行為でなければならない。僕にとっては、いまのところ妻以外の女性とセックスすることは考えられない。妻とのセックスの不在が僕に苦悩の現前をもたらしているのだ。 しかし僕はちょっとした拍子で加納クレタと現実のセックスをすることになる。それは加納クレタの強い望みに応じた形でのことだった。彼女はかつて娼婦として綿谷のぼるに犯された痛手から回復するために、僕とのセックスをそのきっかけとして成就したいというのだ。 僕は加納クレタの願いを聞き入れて、彼女とセックスした。 「それは静かな交わりだった。加納クレタと交わるのは、なんだか夢の延長のように感じられた。夢の中で加納クレタとやった行為を、そのまま現実でなぞっているみたいに思えた。それは本物の生身の肉体だった。でもそこには何かが欠けていた。それははっきりとこの女と交わっているという実感だった。僕は加納クレタと交わりながら、ときどきクミコと交わっているような錯覚にさえ襲われた。僕は射精するときに、これで目が覚めてしまうんだろうと思った。でも目は覚めなかった。僕は彼女の中に射精していた。それは本物の現実だった」 |
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