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太った娘 ハードボイルド・ワンダーランドの同伴者:村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド


ハードボイルド・ワンダーランドには主人公「私」の同伴者として「太った娘」が出てくる。彼女はまだ17歳で、子どもと大人の中間の段階にある未成熟な女性だ。だから私にとって性愛の対象にはならない。その点で、「ダンス、ダンス、ダンス」の中に出てくる霊感少女ユキと似ているところがある。だがユキがまだ13歳でほんとの子どもなのに対して、この太った娘は17歳で大人っぽい一面も持っている。彼女はしきりに私とのセックス願望をほのめかすのだ。

太った娘は小説の冒頭で登場し、結末までずっと私のそばに居続ける。彼女は、私に仕事を依頼した老人の孫ということになっている。その老人は地中深い暗黒の中に研究所を設けていて、そこで大脳生理学の研究をしているということになっている。実は、私はこの老人によって脳を改造され、それがもとで近いうちに意識を失う、つまり死ぬ、運命にあったのだった。

私の前に登場した時、この娘は声を出すことができない状態だった。老人が彼女の周りから音を消してしまったからだった。だが本人はそのことに気づいていない。そんな彼女を私は不思議な気持で眺め、また彼女が美しいにもかかわらず太っていることに困惑させられるのだ。

「女はむっくりと太っていた。若くて美人なのだけれど、それにもかかわらず女は太っていた。若くて美しい女が太っているというのは、何かしら奇妙なものだった。・・・
「若くて美しくて太った女と一緒にいると私はいつも混乱してしまうことになる。・・・
「ただの太った女なら、それはそれでいい。ただの太った女は空の雲のようなものだ。彼女はそこに浮かんでいるだけで、私とは何のかかわりもない。しかし若くて美しくて太った女となると、話は変わってくる。私は彼女に対してある種の態度を決定することを迫られる。要するに彼女と寝ることになるかもしれないということだ・・・」
「太った女と寝ることは私にはひとつの挑戦であった。人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くの様々なタイプがあるのだ。」

太った娘の色気に幻惑させられた私は、変な方向に想像力を働かせる。だがそれは一般論でとどまる。わたしはこの太った娘とは、最後まで寝ることはないのだ。

面白いのは、この太った娘には最後まで名前が付けられることがないということだ。私は始終この娘と一緒にいるのに、彼女に向かってその名を呼びかけることをしない。二人の会話には親密な呼びかけあいのファクターが欠けている。彼らの会話はいつでもなんとなく始まり、なんとなく終わる。それは意図された会話ではなく、いきずりの会話のようでもある。だから私は彼女の名を知らないでも困るということがない。本当に大事な人間だったら、その人の名前を知らないでは決していられないものだ。

娘の方も、私を名前で呼ぶことはしない。だからわたしを一人の人間として大事にしていないかと云うと、そうでもないらしい。彼女は私と寝ることを望んでいるらしいのだ。

「私とでも寝る?
「寝ない、多分
「どうして?
「そういう主義だから。知り合いとはあまり寝ない・・・
「私が太ってて醜いからじゃなくて?
「君はそんなに太ってないし、全然醜くない・・・
「ふうん、と彼女はいった」

これは主人公がどんなふうにセックスするかが話題になった時に、太った娘が私との間で交わした会話だ。彼女は祖父とセックスのことを話したときに、ヴァージンをささげるなら35歳以上の男にしなさいと言われたことを思い出し、35歳である私とのセックスを望んでいるようなのだった。

しかし一方で、この太った娘は愛することの素晴らしさを感じてもいる。彼女は愛のない世界は意味がないし、愛のないセックスもまたナンセンスなのだった。

「でも愛というものがなければ、世界は存在しないのと同じよ」と太った娘はいった。
「愛がなければ、そんな世界は窓の外をとおりすぎていく風と同じよ」

私の運命がだんだんと明らかになり、わたしが遠からず違う世界に移行する、つまりこの世では死ぬ、ということが決定的になると、彼女は自分も私と一緒に、その違う世界に行ってみたいと思うようになる。

「ねえ、私が今何を考えているかわかる?
「わからない、と私はいった。
「あなたがこれから行くことになる世界に私もついていくことができたらどんなに素敵だろうと思っているのよ
「この世界を捨てて?
「ええ、そうよ、彼女はいった。つまらない世界だわ、あなたの意識の中で暮らす方がずっと楽しそう」

これは愛の告白なのだろう。だが現実にはそんなことがかなうはずもない。私は意識を失って死んだも同然の状態になる。私に残るのは、老人によって嵌め込まれた作り物の意識体とそれが分泌するところの架空の世界だ。そこには太った娘が入り込む隙間はない。

太った娘はそのかわりに、意識を失った、つまり死んだ、私を冷凍しようと思いつく。いつか機会があったら解凍してもとの状態に戻し、生き返った私とセックスができるようになるかもしれない。

「それでね、あなたの意識が無くなったら、私あなたを冷凍しちゃおうと思うんだけれど、どうかしら
「好きにしていいよ。どうせもう何も感じないんだから・・・
「冷凍しておけば、祖父が新しい方法を見つけてまたあなたをもとに戻してくれるかもしれないでしょ?・・・
「だからもしうまくいって、あなたの意識が戻ったら私と寝てくれる?・・・
「もちろん、と私は言った。その時になってまだ僕と寝たいと思うんならね
「ちゃんとやってくれる?
「技術の限りを尽くして、と私は言った。何年後になるかわからないけど
「でもとにかくそのとき私はもう十七じゃないわね」

このように、ハードボイルド・ワンダーランドの中では、太った娘のセックス願望が次第に肥大化していくというわけなのだ。




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