村上春樹を読む
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ビールとタバコとセックス:村上春樹「羊をめぐる冒険」


作家には癖というものがあって、それは物語の進行をスムースに運ばせるための小道具の使い方によく表れる。村上春樹という作家にとって、彼一流の小道具は、ビールとタバコとセックスだ。

ビールとタバコを小道具というのは何とか納得できるとしても、セックスは小道具と呼ぶには抵抗がある。こんな感じ方をする読者がいるかもしれない。だが村上春樹には、そんな読者の偽善的な羞恥心など無関係だ。彼にとって男女がセックスするのは、煙草の煙を吹かすのと同じように、日常的で何気ない行動なのだ。

村上春樹の初期の作品に出てくる主人公たちは、実によくセックスする。セックスすることは、彼らにとっては、別段大げさな行為ではない。かといってどうでもよいことではない。セックスは男女の間の挨拶のようなものだ。男女はセックスしている間は、お互いにつながっていると感じられる。セックスをしなくなることは、お互いが物理的にも精神的にも離れていくことの現れなのだ。

「羊をめぐる冒険」の中から、セックスの場面を取り上げてみよう。

冒頭に近い場面で、主人公の僕は知り合ったばかりの女の子に向かって、「君が欲しいな」という、すると「いいわよ」といって彼女が微笑む。男女のセックスが挨拶代わりに使われていることがよくわかる例だ。

これは男の方から女を誘っている場面だが、女の方から男を誘う場面もある。耳の綺麗な女の子と出会ったばかりで、僕はその女の子からセックスを誘われる。「あなたと寝てみたいわ」と彼女はいった。そして我々は寝た、というわけである。

主人公の言葉を借りて、村上はセックスについて次のようにいう。

「女の子と寝るというのは非常に重大なことのようにも思えるし、逆にまるでたいしたことじゃないようにも思える。つまり自己療養行為としてのセックスがあり、暇つぶしとしてのセックスがある。
 終始自己療養行為というセックスもあれば、終始ひまつぶしというセックスもある。はじめは自己療養行為であったものが暇つぶしに終わる例もあれば、逆の場合もある。なんというか、我々の性生活はクジラの性生活とは根本的に異なっているのだ。」

クジラの場合に限らず、多くの生き物にとっては子孫を残すための意味ある行為であるセックスが、人間の場合には自己療養になったり、暇つぶしになったりするわけなのだ。動物に限らず、自分を理性的な存在だと考えることにこだわるある種の人間たちも、セックスを何か特別な行為として考えるであろう。

繰り返すようだが、村上春樹の小説に出てくる人物たちは、日常生活に組み込まれたごく自然な営みとして、セックスをする。それは排泄したり、シャワーを浴びたりするのと、異ならない次元の行為だ。

ぼくと女の子は札幌のホテルを引き払って、羊を求める旅に出発することにする。その際僕は次のように言う。

「荷物の整理が終わると我々は性交し、それから街に出て映画を見た。映画の中でも多くの男女が我々と同じように性交を行っていた。他人の性交を眺めるのも悪くないような気がした」まるで荷風散人のつぶやきを聞くようだ。

村上春樹の小説に出てくる人物たちはまた、ビールをよく飲む。それはがぶ飲みに近い異常な飲み方だ。特にひどいのは、「1973年のピンボール」に出てくる鼠で、彼は小説世界の進行とともに、おびただしい量のビールを飲み、それに見合ったおびただしい量の小便を排泄する。

「羊をめぐる冒険」の僕も、おびただしい量のビールを飲む。ビールのほかに白ワインを飲んだり、ウィスキーを飲んだりすることもある。要するに年がら年中アルコール飲料を飲んでいる。これでは確実にアル中になるに違いない、といった飲み方だ。

アルコールを小説の小道具に使った作家として、ヘミングウェーやフィッツジェラルドなどのアメリカのロスト・ジェネレーションの作家たちをあげることができる。たとえばヘミングウェーの「武器よさらば」は、全編が酒を飲むシーンでいっぱいだ。この小説の本当の目的は、人間が酒を飲む際の、流儀みたいなものを紹介することにある、そういってもよいほど、酒を飲むシーンにこだわっている。

村上も、そうしたやり方に影響されたのかもしれない。現代にも、ビールの飲み方に美意識の入り込む余地があってもいいではないか、そういっているようでもある。

村上の小説に出てくる人物たちはまた、煙草をよく吸う。男も女もだ。たとえば次のようなシーンがある。

「彼女はサングラスをかけたまま窓際のソファーに横になって、天井を眺めながらはっか煙草を吸った。僕は灰皿を持ってその脇に座り、彼女の髪を撫でた。猫がやってきてソファーに飛び乗り、彼女の足首に顎と前足をかけた。彼女は煙草を吸うのに飽きると残りを僕の唇にはさんであくびをした。
「旅行に行くのは嬉しい?」と僕は訪ねてみた。
「うん、とても嬉しいわ。とくにあなたと一緒にいけるのがね」

こうした文章を読むと、この作家にとっては煙草というものが、物語の進行にとって不可欠な伴奏を奏でる楽器のように使われていることがわかる。

煙草をこんな風に効果的に使った作家は、おそらく村上春樹が初めてで、しかも最後になるのではないか。というのも、今は世界中が煙草に不寛容になり、煙草について肯定的に語るものは、胡散臭い人間だと思われかねないような時代だからだ。

村上の小説が外国語に翻訳されるにあたって、たとえば未成年が煙草を吸うシーンが意識的に省かれたりすることがあるという。村上もそれを許しているらしい。今は煙草についてポジティヴに言えるような時代ではない、とう了解がそこにはあるからだろう。

もしも村上春樹がノーベル賞をもらいそこなったとしたら、その最大の原因は、彼が煙草を肯定的に扱ったことだ、というようなことになりかねない




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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