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アンシュルスと南京事件:村上春樹「騎士団長殺し」


村上春樹の最新作「騎士団長殺し」は、発売早々大きな反響を呼んでいるようだが、そうした反響の中にはファナティックなものもある。そのファナティシズムが槍玉に挙げているのは南京事件をめぐる次のような一文だ。

「その年の十二月に何があったか?
『南京入城』と私は言った。
『そうです。いわゆる南京虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占領し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?』
 もちろん私にもそんなことはわからない。」

この一文をとらえて村上を攻撃するものが跡を絶たないらしいのだが、そうした攻撃者は筆者の身近にもいた。先日少年時代から仲良くしている友人と飲んだ際に、筆者がこの小説を話題に取り上げると、その友人はこの一文に触れて村上は実にけしからん奴だと言った。南京事件などというのは、中国側のでっち上げであって、実際には起こらなかったというのが彼の信念なのだ。こうした信念は、愛国的であることを標榜する多くに人に共有されているらしく、村上のこの一文は彼らの逆鱗に触れたというわけなのだろう。筆者の友人は実際には村上の小説を読んでいなかったが、ファナティックな村上攻撃をする人々の殆ども村上の小説は読んでいないらしい。そんなものは読むに価しないということなのだろう(こういう言い方を村上は若い頃から散々されてきた)。

この話題は、「騎士団長殺し」という絵の作者である雨田具彦の人物像を解明しようとするコンテクストの中で出てくる。雨田具彦は、1937年頃オーストリアのウィーンに滞在していて、ナチスによるオーストリア併合、いわゆるアンシュルスを見聞していた。そのかかわりの中で雨田具彦はある政治的陰謀に巻き込まれ、深刻な体験をし、その体験の中から「騎士団長殺し」という絵が、あたかもその体験の辛さを補償するかのように生まれてきたらしいということになっている一方、ほぼ同じ時期に雨田の弟継彦が中国戦線に従軍して南京大虐殺を体験したということにされている。上の一文はその南京大虐殺にかかわる説明として出て来るわけである。ともあれ弟の継彦は、この体験が心理的トラウマとなって、ついに自殺してしまう。一方兄の具彦は、ウィーン時代の体験を自分の心の中に封印し、二度と語ることがなかった。ただ一つその証拠として描いたのが「騎士団長殺し」という作品だったわけだが、雨田はその作品を世に出すことはなかったし、また作品自体は小説の終わるところで、この世から永久に消滅したことが宣言されるのである。

この小説は「騎士団長殺し」という絵を中核に展開する形になっているから、その絵の背景設定として、1937年前後のウィーンの政治状況を取り上げ、そのなかで政治的な陰謀の話を持ち込んでくることには、小説としての不自然さはない。むしろ小説を面白いものにしている。その延長で雨田に弟を対置させ、その弟の体験として南京事件を持ち出すことにも無理なところはないだろう。もし無理があるとすれば、愛国主義の建前の陰で歴史の歪曲がまかり通っている今の日本の中で、南京事件のように都合の悪い話、できたら無かったことにしたい事柄を、わざわざ持ち出すことで、世論と折り合いがつかなくなるという難しさに村上が直面するということだろう。実際村上はファナティックな攻撃にさらされているわけだ。だが村上はそうした誹謗中傷には若い頃から慣れているせいで、些かの痛痒も感じていないと思う。

こういう事情を抜きにすれば、村上にはもともと自分なりの歴史意識を小説の中に持ち込む傾向があった。「ねじまき鳥クロニクル」のなかでノモンハン事件や日中戦争を取り上げたのはその典型的な例だ。ノモンハン事件とのからみでは、村上はロシア人による日本人への暴力行使を生々しく描いたし、日中戦争のからみでは日本人による中国人への暴力行使を凄惨なタッチで描いた。村上の暴力の描き方は、実に人間的であって、その人間的な側面こそが暴力をすさまじいものにしている。そうした描写に比べれば、今回のアンシュルスや南京事件の描き方は、それが第三者の口から説明的に語られることで、客観的になっている分だけ、生々しさが弱まっている。小説の中の体験された出来事としてではなく、小説の外で起こった歴史的な事件だとされることが、事態を抽象的なものにしているわけである。

ところで上述の文章の中であげられている数字については、村上は、事実の重さの前では数字の多寡は問題にならないというような言い方をしているが、それはそれでひとつの考え方かもしれない。しかし、上限の四十万という数字は、中国側でも使っていない(中国側は公式には三十万と言っている)。そんな数字をわざわざ持ち出したことには、なにか村上なりの意図があったのか。多少気になるところだ。







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