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村上春樹「村上朝日堂はいほー!」

村上春樹のエッセー集「村上朝日堂はいほー!」は、「ハイファッション」という女性向けのファッション誌に、1983年から5年にわたって連載したエッセーを集めたものだ。村上はほぼ同じような時期に別の女性ファッション誌にエッセーを連載している(のちに「ランゲルハンス島の午後」となる)ので、ファッション業界から人気があるのかもしれない。といってもエッセーの内容は、ファッションとはほとんど関係なく、村上自身の身辺雑記とでもいうようなものである。題名の「村上朝日堂」は、この時期の村上のエッセー集によく使われたものだが、内容をわかりやすくするには、「ムラカミハルキ自分自身を語る」としたほうがよかったかもしれない。

村上はかなり気軽に自分自身をさらけ出している。生い立ちからはじまって、自分の性格や生活態度、趣味や夫婦仲などだ。自分にかかわる夫婦仲のことをこだわりなく暴露するというのは、珍しいことと言える。そんなところに村上の性格の面白さが現れているのではないか。

村上は、自分と細君とは星占いの上では最悪の組み合わせだと言っている。村上は1月12日生まれの山羊座で細君は10月3日生まれの天秤座だそうだが、この組み合わせは、山羊座が圧倒的に不利なのだと言う。山羊座が大地に足をつけてこつこつ地味にやっているのに、天秤座はあっちこっち飛び回ってちゃらちゃらとしている。だから山羊座はいつも損してばかりいるというわけである。村上の言葉で言うと、「天秤座と結婚した山羊座の人間が良い思いをできるほど世の中甘くないのだ」

こんなことを言われると、筆者などは自分自身の夫婦仲を反省してしまう。筆者は7月15日生まれのかに座、筆者のつれあいは11月15日生まれのさそり座である。星占いの本を開くと、この組み合わせは非常に相性がよいとある。相思相愛で仲がよく、どんな困難も力を合わせて解決し、明るい未来を切り開いていく、というのだそうである。

ほんとにそうかなあ、と筆者は思ってしまう。たしかに仲が悪いことはないが、かといって相思相愛でいつも一緒にいるのが楽しいというわけでもない。本当に仲のよい夫婦は、買い物にも一緒に行くというが、筆者は結婚した当時は付き合ったことがあるものの、それ以後はご免こうむるようにしているし、また、派手な喧嘩はしないまでも、ちょっとしたいさかいはしょっちゅうしている。筆者のつれあいはけっこう執念深いところがあって、一端へそを曲げると、一ヶ月くらい口を利かないことも珍しくない。

こんなこともあって筆者の場合には、村上ほど素直に星占いを信じる気にはなれないのである。

自分の夫婦仲を披露するのは、ハイファッションの享受者である成熟した女性たちへの村上のサービスなのかもしれないし、また編集部の意向を受けたものなのかもしれないが、こうした文章は例外で、この本に収められたエッセーはだいたいお堅い印象のものが多い。村上にしては珍しくお説教臭さを感じさせるものが多いのだ。

これはお説教とは言えないが、今の日本に対する批判というか、違和感というようなものを吐露した文章もある。村上が特に違和感を拘るのは、日本の社会にある同調圧力のような雰囲気だ。これは高校時代に経験した同級生たちの制服へのステロタイプな評価とか日本中にあふれる標語などに現れている、と村上は言う。高校生が制服についての自由な選択を前に、私服より制服のほうを選んだというのは理解できないし、また標語によって、世の中が多少変るというわけでもないのに、そうした無意味な標語が日本中にあふれているのは、この社会の同調圧力というか画一的なものの考え方を反映しているようで気味が悪い、と村上は言うのである。

村上がこんなふうに日本に対して批判的になっているのは、長い間外国にいて日本を外から眺めていたからだろう。このエッセー集がカバーしている五年間のうちの後半は、村上は外国で生活していた。それで日本を見る目がいささか厳しくなったのかもしれない。

ところで村上が一時期日本を離れて外国を渡り歩いたのは、日本がわずらわしくなったからだと言われたし、村上もそれを否定していない。日本にいると余計な雑音が多すぎて、創作に身が入らないというのだ。雑音のうちの主なものは、いわゆる文芸評論家の言いがかりのような言説だと思うが、中には普通の人間から受けた陰湿な中傷もあったようで、村上はこの本の中でもそうした中傷について触れている。そうした文章を読むと、村上が一方では日本の社会に蔓延している同調圧力のようなものに息苦しさを感じる一方、自分をとりまく悪意のようなものにとことん参っているといった雰囲気が伝わってくる。

暗い話に傾いてしまったが、思わず笑ってしまうような文章も無論ある。中でもとりわけ笑ってしまったのは、床屋で肩こりについて考えたという文章だ。まず「床屋」という言葉が、いまでは差別用語に指定されているのだそうだ。そこで村上は「床屋さん」というわけなのだが、その「床屋さん」が散発の途中で客の肩を揉むというのがこの国の不思議な風俗の一部となっている。「床屋さん」がこういうことをするのは、需要があるからだろうが、村上の場合には、くすぐったいばかりで少しもありがたくない。かえって迷惑なのだが、それを言うと角がたつので黙って揉んでもらっている。だが最近は、それが気持ちよく感じるようになってきた。おそらく自分が年をとったせいだろう、そう村上は言っているのだが、それがそっくり筆者にも当てはまったので、思わず頬を緩めた次第だった。

筆者も若い頃は、床屋で肩を揉まれるのが苦手だった。すくぐったいだけで少しも気持ちよくないのだ。だがそれを言うと角が立つので、黙って揉んでもらっていたのは村上と同じだった。そして最近になってそれを気持ちよく感じるようになり、かえってこちらから待ち望むようになったのも、村上と共通している。筆者も村上同様、年をとって肩が凝るようになったからだろう。







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