村上春樹を読む
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村上春樹・糸井重里「夢で会いましょう」

「夢で会いましょう」は、村上春樹と糸井重里のコラボレーションである。村上が前書きを、糸井が後書きを担当している。一冊の本を読むときには後書きから読む習性を持つ筆者はまず糸井の書いた後書きを読んでみた。するとそこには、「ムラカミハルキの前書きを読んだら、すぐに私の書いたこの後書きを読むといった、そういったやさしさを私は望んでいる」と書いてあった。筆者は、ムラカミハルキの前書きよりも、糸井の後書きから先に読んだわけだから、糸井にとっては十分にやさしい読者であるわけだ。

ページをめくり返して、ムラカミの書いた前書きを読むと、そこには「夢で会いましょう」というタイトルへの言及があった。このタイトルは糸井の発案になるもので、「なんか、寝る前に読みなさい」といった意味合いを込めたものらしいと書いてある。この推測はこの本の体裁の特徴を言い当てている。ここに納められた数十本の文章は、短めのエッセーというか、長めのキャッチコピーというか、なんとも中途半端なものばかりだが、寝る前に読むには適している。

村上は小説家であるし、糸井はコピーライターである。その二人がコラボレートして文章のリレーのようなものをした、というのがこの本の成り立ちである。それゆえ、この本はエッセー集ともいえないし、かといってコピー集ともいえない、その中間でもないし、足して二で割ったというのでもない。肌違いの二人の人間が、たまたまコラボレートしたらこんな本が出来上がった、というような感じの本である。

村上は、コラボレーターの糸井を次のように表現している。「世の中には『あいつ良い奴だけど文章はマズイ』とか、その逆に『あいつは嫌な奴だけど文章はウマイ』とか、そういうことがよくあるけれど、糸井さんの文章はそういう面ではすごく特殊で、『・・・だけど・・・』といった種類の転換を簡単には許さないところがある。こういのはたしかに小説家の文章とは色合いがちがう」。褒めているのかけなしているのかわからぬ曖昧な表現であるが、それは糸井に対する村上の戸惑いのような気持のあらわれなのかもしれぬ。

たしかに糸井の文章は小説家の文章とはかなり肌合いが違うという印象を与える。たとえば次のような文章。「ゼロックスのガラス板に裸でお尻を乗せるような女は嫌いだと言った男がどういうわけかスイッチをONにしていたなんておかしいねと笑いながらその一枚を僕に見せた奴がいたけれどどっちもどっちだなあと思いつつこれゼロックスとろうかとつい言ってしまった自分が恥ずかしいのだが悪いのはどの人間でもなくすべてこのゼロックスという機械にあるわけでしかも罪を憎んで人を憎まずという考え方からするとやはり機械に文句を言うのも人を憎むのと同じことのようだから面倒くさいことはぬきにしてワーッと派手に騒ごうじゃありませんかと皆さんに告げたそばから野次が飛び週刊誌は駆けつけるわ赤ん坊は泣くわ大変なことになったところで目が覚めてくれさえしたらよかったのに僕の夢をゼロックスでとるような悪漢が紛れ込んでいたために運悪く僕は逮捕され死刑を宣告されるはめになってしまったのです」

これは、物語を語ろうという発想からではなく、人を驚かせようとする発想から出ているのだろう。とにかく発想こそがすべてだ、というのがコピーライターの発想で、その発想も人の意表を突くに足りればそれで十分に事足りるという発想がここには込められているのだと思う。そうした発想をする糸井が、村上の印象を次のように書いている。「よくできた鉄道模型には、ちゃんと、ベンチで汽車を待つ老夫婦とか、重そうに荷物を運んでいる赤帽とかの人形があって、そいつらのほうが機関車や線路よりも私の注意をひく。ハルキ・ムラカミは、旅人の役で、鉄道模型セットのどこかにいそうな雰囲気を持っている」

これは村上を褒めているのか茶化しているのか曖昧な印象を与えるが、そもそも村上は明確な印象にあてはまらない人だから、こういう言い方もあながち無茶ではないと思う。

この本にはどういうわけか、村上の既出の短編小説が一つ採用されている。「パン」と題するのがそれだ。これはもともと「パン屋襲撃」という題名で雑誌に掲載されたもので、後になって「パン屋再襲撃」というタイトルの続編も村上は書いている。この続編は本編の書き直しというような意味合いを持たされていたようで、これが決定版みたいになって、本編のほうは忘れられた作品となってしまった。そこで、他に発表の場所もなくなって、無理にここに押し込んだ、ということらしい。

これは、二人組がパン屋を襲うというストーリーで、襲われたパン屋というのが頭のはげた五十過ぎの共産党員ということになっていた。その「パン屋を襲うことと共産党員を襲うことに我々は興奮し、そしてそれが同時に行われることにヒットラー・ユーゲント的な感動を覚えていた」というような話である。







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