村上春樹を読む
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内田樹「もういちど村上春樹にご用心」


筆者は、内田樹の書いた本はけっこう多く読んでいるほうだと思うが、そのきっかけとなったのは彼の村上春樹論「村上春樹にご用心」だった。その本の中で内田が、蓮見重彦による村上への罵倒を取り上げて、はじめから読者に読むなというのはえげつないやり方である、読んだ上で自分の言い分が正しいかどうか判断してくれというのがまともなやり方だ、と言っていたのを読んで、なかなか気の利いた批評振りだと思ったものである。

「もういちど村上春樹にご用心」は、その続編だというので、これもまた読んでみた次第だ。てっきり新しい文章ばかりを集めているのかと思ったら、半分程度は前作からとったとあったので、損をしたような気がしないでもなかったが、先ほどの蓮見にかかわる文章以外はすっかり忘れていて、全く新しい気持で読めたので、まあそんなに損をしたという気持を抱かずに済んだという次第だ。

内田の村上に対する姿勢というか心構えは、評論家として村上を論じるのではなく、ファンとして村上を称えることだという。ファンの言うことであるから、理屈ではなく感情が推進力となっている。村上の書くことは何から何まですばらしいのであって、そのすばらしい文章が次々と自分の感性を刺激するのを恍惚とした感情を以て享受する。それが内田の村上鑑賞法のアルファであり、オメガということのようだ。こんな熱狂的なファンを持っている現代作家は、世界広しといえども、村上以外にはそう多くいないのではないか。

そうはいっても、内田は一応思想家ということになっており、自分でもそれを否定していないようなので、ファンとしての感情にもいくばくかの理屈をつけねば格好がつかないようだ。そこで内田は、村上文学が世界文学として、それこそ地球上のあらゆるところの人々の心に訴えかけているのはどうしたわけからか、その理由というか、原動力を明らかにしようとしたりもする。

村上作品が世界中の人々に読まれている理由は、それが「あらゆる文化圏の人々の琴線に触れる『原型的な物語』を語っている」からだと内田は言う。原型的な物語というのは内田によれば、「邪悪なものをめぐる神話」であり、「青年の成長譚」であり、「血族と因果の物語」である、ということになる。とくに「邪悪なものをめぐる神話」が村上作品の最大の要素となっているが、それは「ごく平凡な主人公の日常に不意に『邪悪なもの』が闖入してきて、愛するものを損なうが、非力で卑小な存在が全力を尽くして、その侵入を食い止め、『邪悪なもの』を押し戻し、世界に一時的な均衡を回復する、という物語」である。この物語の類型は、村上の作品世界の転回点となった「羊をめぐる冒険」から最新作の「1Q84」まで一貫している、そう内田は言うのである。

「青年の成長譚」は、子供から大人への成長にともなうイニシエーションをめぐる問題として、これもまた普遍的な物語類型であり、また「血族と因果の物語」も、世界についての運命論的な解釈をめぐる問題として、やはり普遍的な物語類型である。村上は、人類すべてに共通するこうしたテーマを飽きることなく追求することで、世界中の人々の心の琴線に触れ、世界文学として自らの世界を確立した、というのが内田の村上評価の基本的な図式である。

この図式のうち、内田がこの本のなかで特に注目しているのは「血族と因果の物語」である。内田はこれを、村上のエルサレム・スピーチを引き合いに出しながら、村上自身の個人的な体験とかかわらせて論じている。その体験というのは、村上の父親が中国で体験したものを踏まえたものだ。村上の父親が中国人に対して抱いていた罪悪感のようなものを、中国への直接的なかかわりを持たない村上が、息子としてそれを引きついだ、というものだ。村上の初期の短編小説「中国行きのスロウボート」は、それをテーマに取り上げたものだが、村上が自分の個人的な体験を人類全体の普遍的な物語類型とストレートにつなげることに、作家としての村上の尋常ならざる意気込みのようなものを内田は感じるというわけだろう。

「中国行きのスロウボート」が、村上の父親の中国人への罪悪感を、息子である村上がひきつぎ、それを可視化したものだと指摘したものとして加藤典洋が上げられる。加藤と内田とどちらが先にそれを言い出したのか、よくはわからぬが、どうもこの二人は村上の読み方について、共通するものがあるようだ。

以上は、村上の作品世界の構造にかかわる内田の指摘だが、内田は、村上のあの独特なエクリチュールについても、恍惚とした共感の感情を込めて褒め称えている。村上は、日常生活の何げない部分に細かい配慮をくばり、どんな部分からも悦楽のようなものを引き出す達人だ。それが村上の文章を非常に生き生きとさせるのだが、そうしたところはヘミングウェーと似ている、と内田は言う。ヘミングウェーも、たとえば食事をする場面で、ジューシーなステーキをよだれをたらしながらうまそうに食う場面や、主人公がなにかと因縁をつけてのべつまくなしにワインを飲む場面を描いているが、それはヘミングウェー自身の食う楽しみや飲む喜びをそのまま語ったものなのだ。それと同じように、村上も食事を作ったり掃除をしたりという日常的な動作をそれこそ決め細かに描いているが、それは村上自身がそうした動作に喜びを感じているからに違いない、というわけである。

たしかにヘミングウェーの文章を読むと、そこからは生きることの喜びがストレートに伝わってくる。ヘミングウェーの小説を読むと、自分でもワインを飲みたくなるし、また近くの小川に出かけていって釣りをしたい気持にもなるというものである。内田もこう言っている。「ヘミングウェーはお酒を飲む場面も、実に美味しそうに書きますね。僕はヘミングウェーを読んだあとは、つい深酒をしてしまいます」。筆者もまったくその通りである。







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