村上春樹を読む
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チャンドラーの「ロング・グッドバイ(The Long Goodbye)」を村上春樹の訳で読む


村上春樹が翻訳したレイモンド・チャンドラーのミステリー小説「ロング・グッドバイ」(The Long Goodbye)を読んだ。チャンドラーの作品を読むのは初めてだし、またミステリー小説など殆ど読んだことがなかった筆者だが、村上春樹がハードボイルドの傑作として評判の高いこの作品をどんな日本語に仕上げているか、そこのところに興味があって読んだ次第だ。

その興味というか、期待の気分は裏切られなかった。村上がこの作品を「準古典小説」と高く評価している通り、これは単なるミステリー小説としてではなく、高い文学性を持った作品だといえる。また村上による日本語も素晴らしい出来だ。

村上はチャンドラーのこの作品を、多方面から評価しているが、最も彼がこだわったのは文章の独自さだ。

「チャンドラーの文章はあらゆる意味合いにおいてきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にも真似することのできないものだった」と村上はいう。そんな特別な英語の文章を、村上は自然な日本語に置き換えてしまった。そこのところが村上の文章のファンとして、筆者には面白かったのだ。

筆者は村上の手になったこの作品を、やはり村上が翻訳したフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」と絶えず比較しながら読んだ。小説の結構から文章の雰囲気までよく似ているのだ。それは村上という一人の文学者の手になることからもたらされるところともいえるが、この二つの作品がもともと似通った部分を持っていることの反映かもしれない。

このことは村上自身も認めていて、次のように書いてもいる。

この小説には「<グレート・ギャツビー>と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャツビーとすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。ロング・アイランド=マンハッタンを行き来するストリート・ラインは、アイドル・ヴァレー=ロス・アンジェルスという位置関係に置き換えられる」

こうした形式上の類似点以上に共通しているのは、文章の運び方だ。両方とも主人公による語りという一人称の文体を採用している。物語は彼らの目を通して語られていく。だから三人称小説におけるように、物語の配置がパノラマ的に描かれることもなければ、作者自身による心理描写が混じり込んだりすることもない。あくまでも語り手の目に映った光景が語られるだけだ。それはあくまでも登場人物の行動が織りなす世界なのだ。チャンドラーにあっては、事態を即物的に切り取っていくヘミングウェー風の文体が、この小説のハードボイルドな性格を際立たせているといえる。

主人公による語りはまた、主観性に応じた饒舌性のようなものを含んでいる。主人公は物語の進行を時間軸に沿って語りながら、時には立ち止まって、読者のためというよりは、自分自身の気晴らしのためとでもいうかのように、埒もないことについて長々とおしゃべりをする。

じつはこうした饒舌のような部分が、自分には面白くも写ったし、また小説の創作上に多大な刺激となった、とも村上はいっている。饒舌、というより物語の進行とは直接関係ないようなことを長々と書くことによって、物語に深みをもたらすというのが村上の方法論の大きな特徴ともいえるのだが、チャンドラーはそうした饒舌を活用する名人なのだ。

そんな饒舌の一例として、早川文庫版の141−142ページに出てくる次のような部分をあげてみよう。これは金髪について主人公がうんちくを述べる部分だ。

「世間には金髪女は掃いて捨てるほどいる。昨今では金髪女という言葉が冗談の種になるくらいだ・・・小鳥のように賑やかにさえずる小柄でキュートな金髪女がいる。氷のようなブルーの目でひと睨みして男をはねつける、彫像みたいな大柄な金髪女がいる。心をそそる目つきをこちらに送り、素敵な匂いを漂わせ、いかにも気を持たせ、腕に寄りかかるのだが、うちまで送っていくと決まって、とても疲れちゃってと云いだす金髪女がいる・・・人当りがよく、うるさいことをいわず、酒がなにより好きな金髪女がいる。...小柄で元気いっぱいの金髪女がいる。・・・もやしみたいな顔色をした、貧血症の金髪女もいる・・・そして最後に、ギャングの親分を三人看取って、そのあとで二人の億万長者と結婚した、うっとりとするほどゴージャスな金髪女がいる」

こうした長々とした羅列にどれほどの意味があるのか、作者のチャンドラー自身あまり頓着しないのかもしれない。だがこんな風にせざるをえないのだし、それがまた楽しいのだ。というのかもしれない。

チャンドラーはまた、比喩の使い方も卓越している。村上はそこから多くのことを吸収したに違いない。たとえばこんな具合だ。「どうぞお立ちにならないで、と彼女は言った。夏の雲を描く時に使う刷毛を思わせる声だった」

本来結びつくことのないはずのものが結びつく、そこに読者は違和感を感じながらなんとなく納得させられる、それは比喩の持っている視覚的イメージが読者に直接働きかけることの結果だろう。村上の比喩にもそんな感じのものが多いのだ。

村上はまた、フィリーップ・マーロウという人物そのものに惚れ込んでいる。彼はレノックスの逃亡に絡んで警察に呼び出され、ひどい拷問を被るが決して口を割るようなことはない。また暴力団の連中から脅かされても、ひるむようなこともない。タフな男なのだ。マーロウはそのタフな生き方を、権力に対する一種の抵抗の姿勢としてあらわしている。その生き方が格好いいと村上は言うのだ。

ともあれ筆者はこの小説を読んで、村上がさまざまな点で惚れ込み、また自分の小説作法の中で模範としているところを、読み取れたような気がする。

村上の小説世界がどちらかというとルースにできているのに対して、チャンドラーのこの小説が、あらかじめ綿密に設計された見取り図に従って整然と展開されているように見えるのは、この小説が何はともあれ「ミステリー小説」であることから来ているのだろう。







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