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村上春樹訳「グレート・ギャツビー(Great Gatsby)」を読む


スコット・フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー(Great Gatsby)」を、村上春樹の日本語訳で読んだ。今から30年ほども前に英語の原作を読んだことがあるが、改めて村上春樹の翻訳を読む気になったのは、「ノルウェーの森」で展開された青春小説の作者が、「ザ・キャチャー・イン・ザ・ライ」とともに「グレート・ギャツビー」も訳していると知り、いったいどんな風に訳しているのか、俄然興味を覚えたからだ。

「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」の方は、同じ青春小説として「ノルウェーの森」に通じるところもあるが、「グレート・ギャツビー」は決して単純な青春小説ではないし、雰囲気からして、それとは対極にある作品といってもよい。

ところが村上春樹は、この「グレート・ギャツビー」をたいそう高く評価し、20世紀のアメリカ文学でも最高峰に位置付けている。そして自分は作家としてこの作品から大きな影響を受けたとして、「もし<グレート・ギャツビー>という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がする」とまで言っている。

筆者は村上の作品をまだ読み始めたばかりで、目下「ノルウェーの森」を読み終えたにすぎないが、この翻訳を読んで、彼の言っていることの一端がわかったような気がした。

というのは、村上の翻訳を通じて伝わってくるこの小説の雰囲気が、村上自身の小説(筆者にとってはいまのところ「ノルウェーの森」に他ならないが)の雰囲気と驚くほど似通っているからだ。

ここで筆者が雰囲気というのは、文章の持つリズムなり艶のようなものをさす。それはとりわけ、登場人物たちが交す会話のやり取りを通じて、人間の生き様のようなものとして伝わってくる。そこに読者は生きた人間が吐く息を感じ、この小説が単なる作り物ではなく、読者の生きている現実の空間の延長上にあるもののように感じられるのだ。

この小説は、極めて感性的な性格をもっている。文章の合間に、論理的なつながりだけでなく、匂いや、手触りや、音といった、原始的な感覚が溢れている。そうした点で、「ノルウェーの森」の醸し出すものと極めて似ている。

村上は、この小説が持つ感性的な雰囲気を自分の小説に取り入れることによって、作家としての自己鍛錬を図ってきたのだろうと、筆者などは思ってしまうのだ。

実際村上自身この小説が「小説家としての僕にとってのひとつの目標となり、定点となり、小説世界における座標のひとつの軸となった。僕は隅から隅まで丁寧に、何度も何度もこの作品を読み返し、多くの部分をほとんど暗記してしまった」といっている。

そんなわけで、ずいぶん昔に読んだこの小説を、村上春樹という興味深い作家との関連付けの中で、新しい光をあてながら読んだ次第であった。







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