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村上春樹にとって、走ることは書くこととパラレルの関係にあるものらしい。とくにマラソンは長編小説を書くこととよく似ているという。マラソンも長編小説も、彼にとっては特別な意味での肉体労働なのだ。「長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い」 「走ることについて語るときに僕の語ること」は、走ることにこだわってきた村上春樹が、自分が走ることについてどんな思い入れをしてきたか、それが書くという行為とどんな関係にあるか、について語ったものである。 村上が走り始めるようになったのは、小説家になったことがきっかけだ。毎日机に向かって小説を書き続けるという生活に入るに当たり、体つくりの手段として毎日走ることを決意したのが始まりだった。 きちんとした身体を維持するためには、走ることを継続しなければならない。継続が重要だという点では長編小説を書くことも同様だ。ヘミングウェーもいっているように、「継続すること〜リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる」 長編小説を書くという作業も、肉体的なエネルギーを、長期にわたって必要とする、継続的な作業だということだ。 ところで村上は、長編小説を書くという作業を彼独特の方法で遂行しているらしい。それはいわば「走りながら考える」とでも言ったような方法だ。 「僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく」 村上の作品がとてつもなく長くなる傾向を持っているのは、こうした創作態度と関係があるのかもしれない。 村上は実際に走っている間は殆ど何も考えていないようだ。だいたい音楽を聴いているそうだ。ロックのようなリズム感のある音楽だ。それでも走ることに全く感慨を抱かないわけではない。特にマラソンを走り終えたときにはそうだ。時にはこんな哲学的な瞑想にふけることもある。 「終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際には大した意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際立たせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終りが設定されているだけなんだ、そういう気がした」 「僕に役目があるのと同じくらい、時間にも役目がある。そして時間は僕なんかよりはずっと忠実に、ずっと的確に、その職務をこなしている。何しろ時間は、時間と云うものが発生したときから(いったいいつなのだろう?)、一時も休むことなく前に進みつづけてきたのだから。そして若死にをまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる」 この本の後半では、時間によって老いというものを授かった小説家が、走ることに難しさを感じ始めることについての、愚痴のような思いがつづられている。 ところで一風かわったこの本の表題は、村上が敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの短編小説集のタイトル What We Talk About When We Talk About Love から借用したものだそうだ。 |
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