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翻訳夜話:村上春樹、柴田元幸、翻訳を語る

村上春樹、柴田元幸の両氏が翻訳について縦横に語った「翻訳夜話」という本を面白く読んだ。村上春樹は小説を書くかたわら膨大な量の翻訳をしており、それがまた読みやすいことで定評があるのだが、そんな彼の翻訳を縁の下で支えてきたのが柴田元幸ということらしい。というのも柴田自身がいうように、「熊を放つ」以来、村上の翻訳を英文解釈レベルでチェックし続けてきたらしいのである。それゆえ柴田は村上にとって翻訳の同志のようなもので、大いに信頼感を抱いている、そんな雰囲気がこの本の行間から伝わってきた。

語り合うといっても二人だけの対話ではない。大勢の聴衆を前にして語り、時にその聴衆からの質問に答えるという体裁を取っている。三回催されたその独特の対話のうち、一回目には柴田の大学の学生(翻訳を学んでいる)が、二回目には翻訳の専門学校の生徒が、三回目にはプロの若い翻訳者が、それぞれ聴衆として加わっている。

第一回目の対話は、小説を書くのと翻訳をするのとでは脳みその使いかたは違うのか、という質問を柴田がすることから始まる。すると村上は、違うと応える。小説では主に右脳を使うのに対して、翻訳では左脳を使うというのだ。いうまでもなく、右は感性的な部分、左は知性的な部分にかかわる。小説を書いていると感性的な部分が活発化しすぎて精神のバランスが崩れるのだが、そのさいに翻訳をすると、崩れたバランスが回復されて精神衛生に良い、どうもそういうことらしいのである。

ついで直訳と意訳の話になり、翻訳にとってなにが肝心かという話になるのだが、村上は翻訳にとってもっとも肝心なのはリズムだという。そのリズムにはビートとうねりと、二つの次元があるのだが、大事なのはうねりだという。良い文章には深いうねりがある、というのである。これは翻訳に限らず、どんな文章にもいえることだろう。つまり文章の読みやすさを支えるのは言葉のもつビートであり、人に感動を与えるのは文章全体の底流にあるうねりの感覚だというわけである。

二回目の対話では、翻訳のテクニックのようなものが話題になる。翻訳の専門学校の生徒が相手だという事情も働いたのだろう。専門学校の生徒であるから、日頃から翻訳にとっての心がけのようなものを、教員から口を酸っぱくして言われているらしく、そんな技術的なテーマが話題になる。そしてそれらについて、いくつか面白い議論が交わされる。

まず、時制について。英語圏の小説では、全部が過去形で書かれているのは珍しくない。それをそのまま日本語に訳してしまうと、面白くなくなる。「・・・た」が連なって、文章が生硬なものになってしまう。そこで、それを回避するために適度に現在形を混ぜる。そうすると文章に日本語らしいリズムが現れて読みやすくなる、というのである。これは、筆者などにも大いに経験のあることだ。日本語はすべて過去形で表現すると、単調で堅苦しい雰囲気に陥ってしまう傾向がある。それは時制というものの、言語の体系内の位置づけの違いに由来しているのだと思う。

ついで、英語に特有の表現を日本語に移し替える際の工夫について。たとえば、look over one's shoulder という表現。これを柴田は「肩越しに振り返る」と訳していたのだそうだが、そのうちに単に「振り返る」と訳すようになった。前者は英語の表現を逐語訳にしたものだが、日本語としてはやはりどこかおかしいところがある。日本語では、肩越しになどと付け加えなくとも、単に振り返るといっただけで、肩越しに振り返るイメージが浮かんでくる。それをわざわざ付け加えることはないというわけだ。

これは、shut the door behind him というような表現についてもいえる。これを日本語に訳す場合には、単に「ドアを閉めた」というだけで十分だ。逐語訳にして「後ろざまにドアを閉めた」という必要はない。もっとも、こっちの方に体を向けてドアを閉めるということもないわけではないが。その場合には、「こっちに体を向けながらドアを閉めた」というような言い方になるだろう。

つぎに、ダジャレをどう訳すかという点。ダジャレは言葉の遊びだから、そのまま逐語訳にしたのでは洒落が伝わらない場合が多い。マザー・グースなどを読んでいると、英語のダジャレというものは、主にライム(韻)を利用することから生じる場合が多い。それは日本語に移すと失われる効果であるから、そのまま逐語訳したのではダジャレは伝わらないわけだ。そこで、小田島雄志のシェイクスピアでは、ダジャレを別のダジャレ、つまり日本語でも明らかにダジャレと受け取れる表現に変えている。そうすることで、言葉の意味よりも、ダジャレの効果を優先しようというわけである。こうした態度を、柴田の方はそれなりに評価するのだが(小田島は言葉使いの天才だなどといって)、村上のほうは否定的だ。ダジャレを別のダジャレで置き換えるのは翻訳ではなく、リライトだというのだ。

筆者も、このブログでシェイクスピアの一節を翻訳したことがあるが、その際一番気を使ったのがやはりダジャレの処理だった。たしかに英語のダジャレというものはそのまま直訳したのではダジャレではなくなってしまう場合が多い。そうかといって、小田島のように原文を全く無視して別のダジャレを持ってきたのでは、もはやシェイクスピアの作品とは言えなくなってしまう。その辺の呼吸が実に難しい。

村上の場合には、ダジャレに限らずテクストから外れることを基本的に嫌っているようで、自分自身はなるべく逐語訳に心がけているといっている。

二回目が終わったところで、同じ英語の作品を村上と柴田が日本語に翻訳し、それをもとに三回目の議論に臨んだ。テクストはカーヴァーの Collectors とオースターの Auggie Wren's Christmas Story だ。

翻訳者が違うわけだから出来上がったものの印象は当然違う。例えば人称。カーヴァーの小説は一人称のスタイルだが、その主人公に、村上は僕と言わせ、柴田は私と言わせている。僕と私ではかなり違った雰囲気の言葉だ。そこから小説全体もかなり違った雰囲気を帯びるようになる。それは、翻訳者によってテクストの受容の仕方に差があることに由来しているのであって、ある意味避けられないことである。つまり翻訳というものには、万人にとって明確な正解というものはない。言い換えれば誤解の積み重ねが翻訳である、と極論することだってできる。

しかしそれでもいいではないか、というのが村上の意見だ。それ故村上は同じテクストにいくつもの翻訳バージョンがあるのは無駄なことではないし、むしろ必要なことだとも言っている。第一翻訳には賞味期限というものがある。というのも、その翻訳が行なわれた時代背景が翻訳の中にも忍び込んでいることがいくらもある。たとえば「夜はやさし」に出てくる「ツール・ド・フランス」という言葉。それを当時の日本語の翻訳者は「フランス旅行団」と訳していたが、その当時の時代状況としては、仕方がなかったともいえる、といって村上は、古典に値する作品ほど、時代にマッチした翻訳が重ねられるべきだというのである。

この対話の中で筆者がもっとも感心したのは、翻訳というのは「効率の悪い読書」だとか「濃密な読書」だと村上がいっていることだ。翻訳を通じて作品理解が一層深くなっていくという意味だろうが、これは筆者にも実感がある。筆者は英語やフランス語の詩を日本語に訳すのを趣味にしているのだが、そうした行為を通じて、詩に対する自分の理解がより一層深まってくるという実感を持つことができるのだ。

もっとも筆者の場合には、自分一人で翻訳するばかりで、村上のように文法をチェックしてくれる人もいない。それ故、間違った解釈、つまり誤解が蔓延していないという自信はないが、それを措いても、翻訳は楽しい。その楽しさだけは、村上や柴田と共有できるような気がする。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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