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若い読者のための短編小説案内:村上春樹の作家論

村上春樹の「若い読者のために短編小説案内」は、表題にあるとおり、若い人たちを対象に日本の作家たちの短編小説の魅力について語ったものだ。この本の序文の中で書いているとおり、村上は若い頃から日本文学の良き読み手ではなかったが、アメリカに暮し、プリンストン大学やタフツ大学でアメリカの学生を相手に日本文学について担当することになったのをきっかけに、日本の現代作家たちを集中的に読み、その中から感銘を受けた作品を材料にして、学生たちと一緒に読み解くことになった。その時に村上が選んだのが、第三の新人と呼ばれる作家たちと、その前後に現れた作家なのだという。

この世代の作家たちは、自分の感性に一番ぴったりくるものを持っていた、と村上は言う。また、文学史的にも存在感がある。戦後第一世代、第二世代の作家の多くが今日ではあまり読まれなくなってしまったのに対して、この世代の作家はいまだに読み継がれている。それはこの世代の作家が普遍的なテーマを追求したからではないか。村上はそういって敬意を表するのである。

この本の中で村上が取り上げたのは、吉行淳之介、小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、丸谷才一、長谷川四郎である。このうち最初の4人は文句なしに第三の新人のグループに入る。それに対して丸谷はそんな範疇に囚われない自由闊達な文學活動を展開した人として知られている。長谷川四郎も独特の戦争体験文学を発表した人として、第三の新人とは一線を画した存在である。

村上が第三の新人以外の作家から丸谷才一を選んだのは、もしかして丸谷が村上の才能をいち早く発見してくれたことと関係がかるのかもしれない。また、長谷川四郎については、筆者はこの本を読む前には何も知らなかったのだが、読んだ限りにおいては、長谷川の創作態度に非常な親近感を覚えているらしいことから、村上は自分の作風との近縁性に着目したのかもしれない。

そんなわけで、まず長谷川四郎について村上がいっていることから取り上げよう。長谷川四郎は、戦時中満州で生活し、敗戦前後は何度も生死の境を行ったり来たりしたあげくシベリアに抑留され、そこで過酷な労働を強いられた後、昭和25年に復員した。そしてその直後から、シベリアでの体験を短編小説に書いて発表し、非常に大きな反響を呼んだ。

だから長谷川は、戦後雨後の筍のように現れた戦争文学の旗手の一人として見なされたわけだが、他の戦争文学者が、戦争体験を生々しく、感情を込めて描き出したのに対して、どちらかというと第三者的な視点から、ドライに描いたのが特徴だったのだという(というのも、筆者は長谷川の作品を読んだことがないので、村上のいうことを鵜呑みするしかないからだが)。

村上はそれを、非日常的なものを日常的に描き出しているのだといっている。非日常的なものを非日常的に描くことなら、そうおかしくはない。ところが非日常的なものをあたかも日常的なもののように描くというのは、ちょっと不気味さを感じさせるところがある。その不気味さから、物語の深さが生まれてくる。村上はそう感じながら、長谷川の文体にひかれたのではないか。そんな風に受け取れるのだ。

しかし長谷川も、いつまでも戦争の非日常的な体験ばかり描いているわけにはいかない。そのうちに戦争ではなくて、もっと日常的な題材をテーマにした作品を書かなくてはならない時がくる。ところが、そうした日常的なものをテーマにしたとたん、長谷川の小説には、いわゆる小説らしさが欠けるようになってくる。というのは、非日常的なものを日常的に描いていた時と同じようなタッチで、日常的なものを日常的に描こうとするからだ。非日常的なものを日常的に描く時には、そこにある種の緊張感が生まれるが、日常的なものを日常的に描いても、何の緊張も生まれてはこない。しかし文学というものには、その緊張感が必要なのだ、と村上はいうのである。面白い指摘だ。

メインである第三の新人たちについて言えば、村上は非常に生き生きと、楽しそうに論じている。ところが筆者はこれらの作家たちを殆ど読んだことがない。吉行淳之介と安岡章太郎の作品はそれぞれ二つ三つ読んだことがあるが、内容は殆ど忘れてしまった。小島信夫と庄野潤三については一つも読んだことがない。そんなわけで、村上のいうことを、まったく白紙の状態で受け取ることとなった。それでも結構楽しく読めた。

この四人のなかで一番おもしろさが伝わってきたのは、小島信夫の「馬」という作品を論じた部分だ。これは一組の夫婦についての話である。妻が夫の反対を制して庭の空き地に二階建ての家を建てる。家ができるとその一番いい部屋を馬にあてがう。そればかりではない、妻とこの馬とが性的な関係を思わせるような仕草をする。そこが夫にはたまらない。といった具合で、日常の世界に突然非日常的な要素が入り込んできて、それが日常性を圧倒する、という内容の話だ。

さきほど長谷川四郎のところで触れた非日常的なものと日常的なものとの対立と絡まり合い、それがこの「馬」という作品のテーマになっているのが、よくわかるというものだ。このように、日常性の中の非日常性、その両者の対立と融合、そこから生まれる意外性の感情こそが文学の一つの大きな要素である。そんな風に村上はいっているようなのだ。

小島信夫と違って、吉行淳之介と安岡章太郎には私小説的な要素がある、と村上はいう。この私小説らしさとは、この二人に限らず、第三の新人に共通した要素であったようだ。それ故、彼等が一斉に登場した時には、その私小説的な矮小性を評論家たちに指摘され、すぐに消えてなくなる運命だなどとけなされたのでもあったが、とろこがどっこい。彼等のほうが、前後の世代より輝きを放ち続けているというわけだ。

それは、彼等にある私小説的な要素がそれ以前の単純な私小説とは異なっているためだ。正統の私小説にあっては、私小説という枠組の中でまさしく私の世界が展開されたのであったが、彼らの場合には、私小説という枠組を借りながら、そこに私の世界とはことなった異質の、つまり非日常的な世界をはめ込んだのである。

これは長谷川四郎とは180度角度の違うやり方だと言える。長谷川は非日常の枠組に日常の世界をはめ込んだのだったが、第三の新人たちは、日常的なものの中に非日常的な世界をはめ込んだ。これは長谷川四郎には、やろうとしてできなかったことだが、第三の新人はそれをやって成功した。その成功が、彼等に前後の世代を超えた普遍性のようなものを付与した。村上はそう捉えているようである。

ともあれ、筆者にもこの世代の作家の面白さが、いくらかは分かったような気がする。今後は、これらの作品の中から良質だと定評のあるものを選んで、なるべく読んでみようと思う。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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