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やがて哀しき外国語:村上春樹のアメリカ便り


村上春樹は1991年の始めから2年半をアメリカ、ニュージャージー州のプリンストンで、その後の2年間をマサチューセッツ州のケンブリッジで暮らした。そのうちプリンストンでの暮らしについて書き綴ったものが「やがて哀しき外国語」だ。「やがて哀しき」などといっているのは、自分は外国語の習得に向いていないと謙遜しているからなのだが、どうしてどうして、村上春樹は優れた翻訳者としても知られているから、あくまでも謙遜でしょう。

村上はプリンストンでの滞在中に長編小説を書きはじめ、それが双子の作品として結実した。ひとつは長めの中編小説、あるいは短めの長編小説ともいえる「太陽の西、国境の南」であり、もうひとつは大長編小説「ねじまき鳥クロニクル」だ。

何故村上はプリンストンにこだわったか。彼のもっとも好きな作家であるスコット・フィッツジェラルドが青春時代を過ごしたところだからだという。1984年にアメリカに旅行した村上は、旅路のついでにアムトラックのプリンストン駅に下車し、この小さな大学町を散歩したりして、スコット・フィッツジェラルドの青春時代に思いを馳せたことがあったが、それもひとつのきっかけとなって、この町に腰を据えて住む気になった。すると友人の一人でプリンストン大学の教授であった人が世話を焼いてくれて、ヴィジティング・スカラーの資格で大学に招いてくれたというわけなのであった。アメリカの大学というのは、粋なところがあると、感心するところだ。

プリンストンでの生活は基本的には快適だったようだ。それは、仕事がうまくはかどったということから推し量ることが出来る。しかし日本での生活とは余りにも違うし、アメリカの他の諸都市、たとえば西海岸と比べてもかなり違うところがある。一言でいえばスノビッシュなのだという。西海岸にあるカリフォルニア大学バークレイ校などは、学生の気質から構内の雰囲気まで実にあけっぴろげなのに対して、プリンストン大学は学生から教授たちまで実にすましていて、要するにエリート気取りだというのである。

だから、村上が新聞といえばNYタイムズを週末だけとり、平日は地元のトレントン・タイムズを取っていると聞くと、皆顔をしかめる。そういうのはプリンストンの人たちにとって、コレクトな(正しい)行いではないのだ。ましてやエリートたるものバドワイザーやミラーと言った労働者階級の飲むビールなどを飲んではいけない。エリートはギネスのようにクラシックでインテレクチュアルなビールを飲まなければいけないというわけなのだ。

彼等がエリート意識を育んでいるのは、プリンストンが東部エスタブリッシュメントの牙城のような大学だからだということらしい。この大学にいるのは殆どが裕福な白人だ。それに比べてバークレイは様々な色合いの人々が集まっている。そんなところからもわかるように、プリンストン大学と云うのは、かなり偏った性格をもっているということらしい。

大学がスノビッシュだとすれば、その周囲に広がる住宅地帯にはエクセントリックな人が住んでいる可能性が高いのだという。なにしろ、ここらへんの住宅というのはとにかくだだっ広いので、日本のように住民相互が顔を近づけあうということがない。一軒一軒が孤立している城のようだ。あるいは、日本語でいえば野中の一軒家のようなものだ。それ故、隣にどんな人が住んでいるのか、よく見えないところがある。そんな中で、時たまとんでもない猟奇事件が発生したりもするといって、村上はそんな事件を二三紹介しているほどだ。こうした社会では、身を守るための銃は必需品ということらしい。とにかく村上がいた頃のアメリカ社会は、都市部のエスニックと郊外の白人という具合に社会が分裂し、銃とドラッグが人々を蝕んでいる、そんなイメージがあったようだ。

さて、プリンストンでの生活が一息ついたころ、村上はスコット・フィッツジェラルドの孫娘という人から家に招待された。行ってみるとその女性は村上とほぼ同年代の人であった。ということは、日本風にいえば団塊の世代にあたることになる。団塊の世代に相当するアメリカの言葉は「ベビー・ブーマー」だが、これは日本の団塊の世代よりは年齢幅が広く、1945年から1960年頃までに生まれた人を一括しているのだという。この世代の、特に白人は、地域社会に対する関心が高いのが特徴で、たとえば古い農場が誰かの手によって壊されそうになったり、或は業者の手で建売住宅団地になってしまいそうになると、地元の人々を組織して反対運動をしたりするということだ。

この滞在記は、日本の雑誌への読切り連載と云う体裁をとっているので、様々な話題が次々に登場する。マラソンのこと、ジャズを巡る話、アメリカでの車の選び方、フェミニズムの勢いに圧倒される一方、床屋の腕のまずさにいらいらしたことなどである。村上によれば日米の床屋の腕の違いは、盆栽いじりと芝刈り程の差があるという。アメリカの床屋はどこに入っても、庭の地面の芝を刈るようにして人間の頭の毛を刈るというのだ。

ジャズを巡る話のついでにマイルス・デーヴィスの話も出てくる。ただしトランペットのことではなく服装のことでだ。マイルス・デーヴィスはアメリカ伝統のアイビー風トラッド・ファッションに凝っていて、演奏するときは常に、「ヒップなブルックス・スーツを着て、クールな音でトランペットを吹いていた」。すると他の連中までがそれを真似し、一時期のアメリカのジャズ・ミュージシャンたちの世界は、トラッド・ファッション花盛りという具合になった。

マイルスの話のついでに村上は、自分も若い頃にはトラッドにいかれていたと白状する。いつかポール・ニューマンの登場するある映画を10回も連続して見たことがあるが、それは映画の中のポール・ニューマンのトラッド・ファッションが見たかったからというから、相当いかれていたわけだ。かくいう筆者も、若い頃はトラッド・ファッションにはまった一人だったが、筆者の場合にはポール・ニューマンではなく、何故かショーン・コネリーの着こなしが気に入った。バリッとしたグレーのスーツを着こなしたショーン・コネリーが銀色のアタッシェ・ケースを引っ提げて颯爽と登場する。その姿が格好良くて、筆者も真似をしてみる。すると友人たちは「岡本理研のセールスマンみたいだ」などといって冷やかしたものだ。

アメリカにいても日本人には会う。プリンストン大学には日本の官庁や企業から派遣されてきた人々が結構いた。面白いことには、彼らの間に一種独特のヒエラルキーが生じていて、それがいかにも日本人のせせこましさを感じさせた、と村上はいう。ヒエラルキーのトップにいるのは中央官庁から派遣された連中で、彼等は日本人同志が集まる席では決まって、自分の共通一次の成績はトップクラスで、大学は東大を出て、こういう官庁のこういうポストについていると、滔々と自慢話をするのだという。彼らを前にすると、東大を出ていても官庁勤めをしていない人たちや、そもそも東大を出ていない人たちは、風下に立たされることになる。しかも風下に立たされて、風上の人々に跪拝すらする。そのことをおかしいと思っていないのだ。そんな光景を見て村上は、「日本は僕が想像していた以上にエリートが幅をきかせている国だったんだ」と驚きあきれるのだ。

~そして「なるほどねえ、これまで知らなかったけれど、こういう人たちが実は日本を動かしていたんだ」と半ばあきれつつ納得することになる。まあ向うだって「なるほどね、こういうバカが作家になって、無知な庶民を騙しているんだ」と思っているのかもしれないけど。

そういって村上は感心するわけなのである。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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