村上春樹を読む
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物語の仕掛けと語り口:村上春樹「1Q84」を読む


1Q84は、村上春樹という物語作家がたどりついた、物語のひとつの到達点といってもよいだろう。物語が語るそもそもの中身、物語を語り進める仕掛け、そして物語を語るその語り口、色々な面でこれまでの村上の物語のあり方を集大成している。

まず、中身。これは主人公の男女が一度は失った愛を取り戻す物語だという点で、オデッセウス物語以来の壮大な探究物語の延長線上にある。いわば物語の王道の上に立った物語なわけだ。

しかも主人公たちはこの探求の旅を、彼らが生きているこの現実の世界においてではなく、次元の異なった世界、つまりあちら側の世界で体験する。1Q84とは1984年の世界の裏側にある、別な次元の世界を意味しているわけだ。主人公たちは意識するともなく、いつの間にかこの別の世界に紛れ込んでしまう。紛れ込んだとたんに、彼等は自分たちが互いに求め会っていたことに気づくのだ。

こうして、彼らの探求の旅が始まる。その旅は、おとぎ話の中で、小さな主人公たちがこの世からあの世へとワープし、様々な試練に遭遇する、あの冒険の物語に似ている。しかもおとぎ話では、主人公たちがこの世とあの世を結ぶ扉を通じてこちら側の世界に舞い戻ってくるように、1Q84においても、結ばれた男女が手を携えてこちら側の世界に生還してくる。つまり大人のファンタジーになっているわけだ。

あちら側の世界を扱った村上の作品としては、「ねじまき鳥クロニクル」がもっとも大規模なものだった。ねじまき鳥クロニクルの主人公は、失踪した妻の行方を探すうちに、井戸の底から別の世界へとワープする。そして、こちら側の世界とあちら側の世界とを行ったり来たりする。彼のあちら側への旅は、断片的で繰り返しのきくものだった。

ところが1Q84の主人公たちは、全面的にあちら側の世界に行ってしまう。いったん行ってしまった彼らは、そう簡単にはそこから抜け出せない。それは命がけの苦しい試練をへた上でないとできない。彼らのワープは、生涯で一度だけの命を懸けた体験なのだ。

こうしてみれば、この物語は大人を対象にしたおとぎ話といえるかもしれない。語りかける相手が大人であるから、子供じみたファンタジーではなく、愛の獲得がテーマになる。しかも失われた愛を獲得することだ。その愛が、こちら側の現実の世界では得られずに、あちら側の世界においてのみ獲得されうるということが、この物語の大人のファンタジーとしての眼目だ。

二つ目は、物語を語り進める仕掛け。物語の構成と言い換えてもよい。ここでも村上は、それぞれに異なった進行をする複数の物語を交差させる手法を採用している。「この世の終わりとハードボイルドワンダーランド」、「海辺のカフカ」で採用されていたプロット構成と同じようなやり方だ。

この方法の利点は、複数の視点の縺れ合いを通じて、物語に複眼的な奥行きを持たせられることだ。奥行きが出ると同時に、視野も広くなる。しかも複数のテーマが交差することで、重層的な深みも出てくる。一種のポリフォニーといってもよい。

ポリフォニーの概念は、ミハイル・バフチーンがドストエフスキーの小説手法に即して持ち出した分析装置で、複数の登場人物がそれぞれ自分の内的世界を饒舌に表出し、それらが縺れ合うことによって、あたかも一大交響曲を聞いているかのような感じになる、そういう効果を意味したものだ。ドストエフスキーの小説世界の人物たちはみな大声を上げてしゃべっている。それはある意味で豊穣な音の世界でもある。だからポリフォニーという言葉も場違いではない。

村上の場合には、音の交差ではなく、あくまでも視点の交差だ。青豆に注がれる視点、天吾に注がれる視点、これらはあくまでも別の視点だ。それでもなお、別々にではなく、響きあうように交差している。その後、第三の視点として牛河を巡る視点が加わり、またサブ視点として、ふかえりやカルト教団のリーダーが加わってくる。それらの視点はどれも強烈な自己主張をしているかにみえて、やはり互いに響きあっている。その響きあいが、ポリフォニーに似たような効果を生み出すのだ。それをポリサイトと呼んでいいかもしれない。

三つ目は、物語の語り口。物語とは基本的には語られるものであるから、語り口が重要な意味を帯びる。書かれたものにとって文体が問題になるのと同じレベルのことがらだ。読者は物語を、物語作者の語り口を通して受容する。感動的な語り口は感動を呼び起こし、静かな語り口は平安な感情をもたらすだろう。

1Q84での村上の語り口は、これまでの作品世界でとは違って、物語というものの、ずっと本物らしい語り口になっている。つまり語るものとしての作者が、語られるものとしての物語を、聞くものとしての読者に向かって、語りかけているわけだ。それは語りかけであるから、親密さを伴っているとともに、あくまで客観的であろうとする。

実は村上の、少なくとも大作といわれる作品の中で、一貫して三人称を用いて物語が進行していくのは、この作品が初めてなのだ。「ハードボイルドワンダーランド」では裏表とも、発話者は一人称で語り続けていた。「海辺のカフカ」では、カフカ少年のパーツでは少年自身が一人称で語っている。

一人称で物語を語りかけることもできないわけではない。だがそれは例外的な場合だろう。物語と云うものは、出来事を第三者的に、つまり三人称を用いて語るのが王道というべきだ。一人称で語る話は、物語と云うよりは、体験談というのがふさわしい。

それ故、村上はこの作品で三人称を意識して採用することで、自分の物語をいっそう物語らしく見せかけようと計らったのだといえる。

しかし、村上の語り口には、時として緩みが見えることがある。とくにブック3において、それが著しい。そうした場所は、やや説明に堕していると受け取られる部分だ。物語は語りかけるものであって、説明するものではないのだから、やはり説明的な語り方は物語を退屈な方向へと運んでしまう。

以上とりとめもなく、心に浮かんだことを無造作に書き連ねてきた。筆者も村上同様書きながら考えるというタイプなので、体系的な議論はあまり得意ではない。




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