村上春樹を読む
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ヤナーチェクのシンフォニエッタ:村上春樹「1Q84」を読む


村上春樹という作家は小説の小道具として音楽をよく使う。デビュー作の「風の歌を聴け」以来、ほとんどすべての作品で、音楽が重層低音のような効果を作り出している。「ノルウェーの森」ではビートルズの同名の曲が作品のタイトルになったほどだし、「海辺のカフカ」ではナカタさんを四国まで連れてきてくれたダンプの運転手星野君が、ベートーベンのピアノコンチェルトに陶酔するといった具合だ。

音楽とはいっても、文字という視覚的な媒体を通じて、紙の向う側から音が聞こえてくるわけではない。作者の言葉が喚起するイメージによって、読者は自分の内部にある感性でそれを受け止めるほかはない。もし心の耳というものがあれば、その耳を通じて音を感知するのだといってもよい。

しかし、もともと言葉というものは音に起源を持っている。声をだし、音にして表現することで、人々は互いに意味を了解しあう。これが言語の基本だ。書かれた言語のほうは音が沈黙したあとに残る残像のようなものだ。だから、言葉の芸術である小説と、音の芸術で音楽とはどこかで通底しあうところがある。

村上が「1Q84」の中に持ち込んだ音楽は、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。管弦楽のための小品で、管楽器の大掛かりなユニゾンが特徴だ。冒頭は威勢のよいファンファーレで、金管楽器の叫ぶような音と、ティンパニのおののくような響きがこたえあう。

小説の冒頭、首都高速道路を走るタクシーの中で、カーステレオから流れてくるこの音楽を青豆は聞く。それは渋滞した高速道路で聞くには相応しいとはいえない曲だったが、青豆は座席に身を沈めながらそれを聞く。青豆はそれがヤナーチェクのシンフォニエッタという曲であり、ヤナーチェクはその曲を1926年に作ったのだと思いだす。しかし、自分が何故そんなことを知っているのか、それは分からない。ただ後でわかったのは、この曲が自分を1Q84年に迷い込ませるのに際して、一定のかかわりをもっているらしいということだけだった。

青豆は図書館を訪ねて、ヤナーチェクとこの曲について調べてみた。ヤナーチェクは63歳の時に、ある女性と老いらくの恋に陥った。あるときその女性と平原を散策していると、何とも言われぬ幸福感に包まれ、曲想が湧いてきた。それがシンフォニエッタだった、ということがわかった。でも何故自分が、その曲のことを、こんなにまで深く愛しているのか、そのことまでは分からなかった。ただ青豆にとっては素敵な曲だ。青豆はその後も折に触れて、この曲をくりかえし聞くようになるだろう。

一方、天吾の方には、この曲との実際のかかわりがあった。天吾は数学もスポーツも万能で、何をやらせてもソツのない高校生だったが、その器用さを見込まれて、高校の管弦楽クラブのために臨時のティンパニ奏者をつとめさせられたことがあった。正規のメンバーに故障ができて、そこのパートに穴が開いたためだ。

課題曲はヤナーチェクのシンフォニエッタだった。天吾はわずかな練習時間にも拘わらず、自分のパートをマスターし、演奏会の当日には完璧な演奏を披露した。そしてみんなに喜ばれた。青豆と共通のクラスの担任教師だった女の人も、ほめてくれた。

天吾はいまでは、この曲を演奏したり聞いたりすることはない。一方青豆の方は、この曲を思いがけず再会した恋人のように大事にする。そうしていれば、そのうち本当に愛している人と出会えると思っているかのように。

実際青豆はこの曲を通じて天吾と結びついていたといってもよかった。なぜなら青豆はこの曲に見送られながら1Q84の世界にやってきたのであり、その世界で二人は互いに求めあい、ついには再会することができたのであるから。

青豆はタクシーの中でこの曲の冒頭を聞いたときに経験した、あの不思議な感覚を思い出す。「それは身体のねじれのような感覚だった・・・ひょっとしたらあれが始まりだったのかもしれない」 そう、この曲は青豆が別の世界で恋人探しをするきっかけを作った、始まりの曲なのである。

だからこの曲は、二人の恋人を強く結びつける絆のようなものとして作用しているといってもよい。

村上のこれまでの小説の世界にあって、音楽は基調低音あるいは背景として用いられてきたのであるが、それがこの作品に至っては、ひとつの啓示の前触れのようなものとして作用しているわけだ。

心憎い演出だ。音楽を小道具に使ったものとしては、最も洗練された使い方だったといえようか。




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