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青豆の懐胎:村上春樹「1Q84」を読む


村上春樹の小説「1Q84」の女性主人公青豆は、30歳の成熟した女であるし、無論男とのセックス経験もある。だから処女ではない。その青豆が妊娠した。だが青豆には、その前後男とセックスした記憶がない、自分の子宮が精子を受け入れたという感覚もない。それなのになぜ妊娠できたのか。しかも青豆は自分の子宮の中に宿った小さな命は、思い人である天吾の子だと、直感する。根拠はない、それは啓示のようなものなのだ。

青豆は、自分はいつ妊娠したのだろうかと考える。現在の状態から遡及しておおよその日付を求め、その前後におこったことを点検する。するとあるひとつの、しかし強烈な出来事にたどり着く。リーダーを訪ね、彼と話をし、そのあとで彼の首の後ろに針を打ちこんで殺したという事実だ。わたしは、その時に妊娠したに違いない、青豆はそう直感した。

リーダーは青豆に向かって実に意味深長なことを語った。青豆と天吾とが1Q84の世界に紛れ込んできて、リトルピープルを怒らせるようなことをした。リトルリープルの怒りは当面天吾のほうに向いている。なぜなら天吾はふかえりと協力して、反リトルピープルの作用を立ち上げたからだ。だが天吾を救う手だてがないわけではない。

もっとも理想的な方法は青豆と天吾が手を携えてこの1Q84の世界から脱出することだが、それは難しい。だが青豆が天吾の代わりになることはできる。青豆が天吾の代わりに自分を差し出すことで、天吾を救うことができるというのだ。それがなぜなのか、リーダーはいわなかった。また青豆も詳しくは訪ねなかった。ひとつ明らにされたことは、この場でリーダーを殺せば、青豆には生き残る可能性がなくなるということ、また殺すのをやめて自分が生き残れば必然的に天吾が危機に陥るということだった。この選択肢を前に、青豆は一旦消え失せた殺意をよみがえらせて、リーダーの頸の後ろに針を打ちこんだのだ。

リーダーを殺すことによって、自分が天吾のために死ぬことになったということを天吾は気づいてくれるだろうか、と青豆はリーダーに訪ねた。するとリーダーは次のような意味深長なことを答えた。

「それはおそらく君次第だ・・・君は重い試練を潜り抜けなければならない。それを潜り抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにもいえない。実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」

リーダーを殺した後、青豆は「空気さなぎ」の物語を丁寧に読む。そこにはリトルピープル、マザとドウタ、そして二つの月のことが書かれていた。青豆はその物語を読みながら、この物語の中の摂理のようなものが私と天吾を1Q84の世界へと導いたのだとさとる。そうだとすれば、自分は今、この物語のどこにあてはまるのだろう、そう青豆は自問する。

この物語は天吾がたちあげたものだった。だから青豆は天吾の立ち上げた物語の中にいる、ある意味では天吾の体内にいるといってもよい。彼女はそのことに気づく。そのすぐ後で彼女は、滑り台の上に座って月を見上げている天吾の姿を目撃することになる、そして自分が妊娠している事実を確かめるのだ。

青豆は自分が妊娠した事実を、事実として受け入れる。しかも自分が宿している小さな命の父親は天吾であると、根拠を深く問いただすことなく受け入れる。

ここは読者にとって、多少混乱させられるところだ。村上春樹の世界だから何事が起こってもそれは不思議ではないのだと、心の用意ができてはいるが、何故ここで青豆が妊娠しなければならないのか、その必然性と云うか、物語の流れのようなものが、見えてこないからだ。

実は、青豆が宿した小さな命は、ドウタなのだ、青豆は生ける空気さなぎなのだ、そう村上は構想したのだと思う、だがその構想を、読者に向かってあからさまには示さない。そうすることで、物語に深みを付与しようとしたのだろう。

青豆が宿したドウタは、ふかえりのドウタに代って、新たなレシヴァになるように宿命づけられているのではないか。それ故、そのドウタを獲得するために、カルト教団は必死になっているのではないか。かれらは、はじめはリーダーを殺したという理由で青豆を付け狙うが、そのうちに青豆との間で取引しようと申し入れるようになる。取引とは、青豆の産んだドウタを教団に与え、その代わりに青豆の命は保障するということを意味するのだろう。

青豆自身はこのように自覚したわけではない、彼女はただ何があってもこの小さな命を教団から守らなければならないと思っているだけだ。物語の語り手である村上の方も、読者に向かってそう明示しているわけではない。しかし物語の基本的な枠組みと、語られる物語の流れがそうした方向へと、読者の想像力を導いていく。これは語り手から聞き手へと一方的になされる物語ではなく、語り手と聞き手とが共同して作り上げるタイプの物語なのだ。

それ故、現実には処女ではない青豆が、理念的には処女懐胎の母胎になりうるのだ。青豆が宿した子どもは聖なる子として、神の意志によって与えられたものなのである。青豆は処女マリアであり、聖なる子はイエス・キリストのメタファーであるといえる。そして天吾はヨセフであるとともに、1Q84と云う世界の主催者でもある。なぜなら天吾こそが、ふかえりとともに、この物語を立ち上げたのであるから。

リーダーが青豆に向かっていった「重い試練」とはだから、青豆が聖母マリアとしてキリストに命を与え、そのことを通じて世界と自分自身を救済することだったのだ。




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