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スプートニクの恋人:村上春樹の世界


「22歳の春にすみれは生まれてはじめて恋におちた」村上春樹の小説「スプートニクの恋人」は、こんな書き出しで始まる。すみれが恋に落ちた相手は17歳も年上の、しかも女性だった。すみれはそんな女性に対して強烈な性欲を感じたのだ。しかし不幸なことに、すみれが恋してしまった相手の女性はレズビアンではなかった。その女性はすみれに欲望を感じることはできなかったのだ。

こう整理すれば、この小説が「ノルウェーの森」の延長であるように思えてくる。「ノルウェーの森」では、無口で控えめな女の子である直子がレズビアンであることがほのめかされていたが、この小説の主人公すみれはおしゃまで饒舌だ。どちらかというと、直子よりも小林緑に近い。

小林緑にはとてもレズビアンの影は感じられなかった。だからそんな女の子が突然レズビアンになって、すみれと云う名前で登場したら、読者は面食らうだろう。

語り手の僕は、25歳の青年で小学校の先生ということになっているが、行動様式や考え方は「ノルウェーの森」の渡辺君とよく似ている。その語り手の青年はすみれを愛し、彼女と交わりたいと希求するが、すみれは彼の性欲に応えることはない。すみれが交わりたいのは年上の女性ミューなのだ。

ミューがすみれを気に入ったのは、少なくとも性的な関心からではなかった。小説の中では明示されてはいないが、自分の無聊を慰めてくれるような、ある種の人間的な優しさと云うようなものを、すみれの中に感じとったのかもしれない。世の中には、性的な魅力を感じていなくとも、一緒にいると楽しく感じられるような同性の人が存在しうるものだ。

だけれども、すみれの方では、ただ一緒にいるだけでは満足できない。ミューと肉体を通じて結ばれたいのだ。でも、ミューにはそんなことはできない。彼女にはすみれの肉体を自分の肉体で受けとめることなどできない。彼女の肉体はかえってすみれの肉体を排除しようとするのだ。

だがすみれには全く見込みがないわけでも無かった。ミューはすみれの肉体だけではなく、およそ人間の肉体というものに嫌悪を感じているようなのだ。彼女はある男性からプロポーズされて結婚はしたが、夫となった男とセックスすることはなかった。およそ性欲を感じることがないようなのだ。

そこにはどうも隠された秘密がある。その秘密を解けば彼女のセックスにまつわる秘密も解けるかもしれない。そうすればもしかしたら、ミューとの間で性的な交わりを成立させられるかもしれない。どうもすみれはこう考えたようなのだ。

すみれはミューのとある経験を聞き出すことに成功する。それはミューが若い頃に体験したことで、それがもとで彼女の髪が一夜で真っ白になってしまったほど過酷なものだった。

彼女はヨーロッパの小さな町に滞在していた時、ふとしたことから遊園地の観覧車に閉じ込められてしまったことがあった。その時に彼女は双眼鏡で自分の泊っている家の部屋の中の様子を観察してみた。するとそこには真っ裸の男が巨大なペニスをたらしているのが見えた。そのうえあろうことか、男の隣には自分がいたのだ。その自分は、いまこの観覧者の中にいる自分自身と寸部違わぬ恰好をしていた。着ている服から表情まで同じなのだ。

彼女は気を失った。目覚めると病室にいた。彼女の全身に、痣のようなものができていた。その痣は、観覧車の中でできたものなのか、それとも他の場所でできたものなのか。小説のなかでは明示されていない。

すみれはこの話の中に、黙示録的な意味を読み取ったのかもしれない。ミューはあるとき壁のようなものを境にして、二つに分裂した。こちら側に残ったのが今目の前にいるミューで、もう半分はどこかわからないが、どこかに必ず存在しているに違いない空間の中で生きているに違いない。こちら側のミューは、女性どころか男性の肉体も受け入れないほど無性欲な生き方をしているが、あちら側のミューは旺盛なセックスを楽しんでいるかもしれない。

だから自分もあちら側に行くことができたら、もしかしたらミューの肉体で受け止めてもらえるかもしれない。すみれはそう思ったのではないか。そんな思いが彼女を飛躍させて、こちら側からあちら側へと運んで行ったのではないか。

というのも、小説の半ばほどのところで、すみれは消えて、いなくなってしまうのだ。この小説の後半は、姿を消してしまったすみれを求めて、ミューや青年が探し回る場面なのだ。

すみれが消えていなくなったのは、ロードス島の近くにある小さな島だ。日本人の女の子がだれにも目撃されずにいなくなるなど、とても考えられない。だからすみれは事故や犯罪に巻き込まれて姿を消したのではなく、自分で象徴的な扉を見つけて、そこを通ってあちら側の世界に行ってしまったのではないか。あちら側にいるとすみれが考えたミューと出会うために。青年はついにこんふうな結論を出す。

こんなわけでこの小説は、前半では至極日常的な出来事が展開していき、後半ではすみれの失踪を巡っての謎解きが展開されていく。両者を結ぶのは人間の性欲にまつわる不思議さだ。

セックスは村上作品の大きなテーマだが、この作品ではそれが深層心理と結びついている。

ミューは意識の深層ではセックスを希求しながら、意識の表層ではそれを厳しく拒絶している。その結果分裂した存在を生きていかざるをえなくなっている。

すみれは自分がレズビアンであることを少しづつ意識の表層で了解するようになる、だがその溢れるような性欲を満足させることができない。彼女はその満足を得るために代償的で象徴的な行為へと導かれていく。つまり世界のあちら側に行くという行為だ。

青年はすみれにたいして強烈な現実の性欲を感じている。だがそれを鎮めることはやはりできない。すみれとむりやりにセックスするには、青年はあまりにも分別がありすぎるのだ。

この小説は成就されることのない性欲の物語だ。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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