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バットで人を叩き殺す:
「ねじまき鳥クロニクル」における暴力


村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」では、バットが暴力の徴票として機能している。バットというものは基本的にはボールを打つために作られているのに、それが人間を殴ったり叩き殺したりするために使われるとき、おどろおどろしい人間の暴力性が濃縮してあらわれるグロテスクな道具となるのだ。

バットで人を叩き殺すという行為は、鉄砲で人を撃ち殺す行為などと比較して、ずっと人間的な色合いを帯びている。それは素手で人を殺すことの延長として捉えられるからだろう。

鉄砲が人間の身体から独立した機械であるのに対して、バットは人間の身体の延長線上で捉えられる何者かなのだ。鉄砲を操作する人間は相手の存在に直接働きかけることはない。鉄砲から飛び出した弾丸が相手の身体を粉砕するのだ。これに対してバットはそれを操作する人間にとって拡大された身体なのである。彼はこの拡大された身体を用いて直接相手を叩き殺すのである。

つまりバットで人を叩くという行為は、素手で人を殴る行為を拡大して実践しているという印象を与えるわけなのだ。それはきわめて人間的な、親密な行為だと認識される。

「ねじまき鳥クロニクル」には、こうした人間的で親密な暴力が読者を震撼させるシーンが出てくる。日本軍の兵士たちとナツメグの父親が四人の中国人を虐殺するシーンだ。

日中戦争末期、ナツメグの父親が獣医として勤めていた動物園に、日本兵たちがやってきて凶暴な動物たちを殺していった。その動物を殺すシーンも凄惨な眺めであったが、もっとひどい眺めを獣医はやがて眺めることになった。中国人向けの士官学校から脱走しようとした中国人たちを、日本兵が動物園に連れてきて、そこで虐殺する、その光景を獣医は目の前でずっと見ていたのだ。

このシーンは、人間のもつ暴力性と、その暴力の人間的な性格をあますところなく描き出している。日本兵の指揮官である中尉は、四人の中国人のうち三人は銃剣で刺し殺し、残りの一人はバットで叩き殺すように命令を受けていた。どちらも、上述したような意味での拡大された身体による暴力だ。

「兵隊たちは次の号令で銃剣の先を中国人たちの肋骨の下に思い切りぐさりと突き刺した。そして中尉のいったように、刃先を捻じ曲げるようにして内臓をぐるりとかき回し、それから切っ先を上に向けて突き上げた。中国人たちのあげた声はそれほど大きなものではなかった。それは悲鳴というよりは深い嗚咽に近かった・・・獣医は無感動にそれを眺めていた。彼は自分が分裂を始めているような錯覚にとらわれた。自分は相手をさすものであり、相手に刺されるものだった。彼は突き出した銃剣の手ごたえと、切り刻まれる内臓の痛みを同時に感じることができた」

銃剣を用いて相手の内臓を切り裂く兵士たちは、まるで包丁を用いて家畜を解体しているかのようである。包丁で料理する人は、包丁を自分の手の一部として感じている、その拡大された手で、切り裂かれる肉の感触を味わう。料理とは極めて人間的な行為なのだ。

それと同じように、このシーンで中国人の内臓を切り裂いている兵隊たちは、自分の拡大した身体を用いて相手の身体を解体しているのだ。

その解体作業を呆然と見つめ続ける獣医には、解体する側と解体される側の両方の感覚が自分の中で再現されるのを感じる。彼は自分が分裂を始めているかのような錯覚に襲われるのだ。

最後の残った中国人をバットで叩き殺すように命令された兵隊は、うまくバットを操れるように入念な準備を行う。彼にとっては、バットとは本来ボールを打つためのものであり、それでもって人間を叩き殺すなどとは、到底ありえないことだからである。

ありえないことでも、命令であればやり遂げねばならない。それも確実にヒットさせ、一撃で相手の頭を叩き割らねばならない。こうして兵隊はボールをヒットするような要領で、中国人の頭をヒットする。それは肉でできたサッカーボールほどの大きさの巨大なボールだ。

「中尉は兵隊に向かってうなづいた。兵隊はバックスイングし、大きく息を吸い込み、そのバットを力任せに中国人の後頭部に叩きつけた。驚くほど見事なスイングだった。中尉が教えたとおり下半身が回転し、バットの焼印の部分が耳の後ろを直撃した。バットは最後までしっかりと振りぬかれた。頭蓋骨が砕けるぐしゃりという鈍い音が聞こえた。中国人は声も上げなかった。彼は奇妙な姿勢で空中に一旦静止し、それから何かを思い出したように重く前に倒れた。耳から血を流し、地面に頬をつけたままじっと動かなかった」

このシーンはナツメグの息子シナモンが、母親の記憶に基づいて事実を再生したということになっている。しかしナツメグの父親の悲惨な経験を娘のナツメグがどうして知ったか、このことについての言及はない。だからこれはシナモンの空想であるのかもしれない。シナモンはその空想の中に、主人公の僕がずっとこだわり続けていたところの、バットで人間の頭を叩き割り、人間を鶏のように解体するというイメージを、忍び込ませたのかもしれない。

というのも、シナモンの父親でナツメグの夫である男も、内臓を切り開かれ、まるで解体された鶏のような姿で死体が発見されたからである。

主人公の僕はこのバットを、札幌で見かけたことのあるある男から奪い取ったのだった。後日偶然東京で見かけたこの男を僕はずっと尾行したのだが、そのうちこの男の消えたアパートの中に足を踏み入れたところ、突然バットで叩きつけられたのだった。反撃した僕は男からバットを奪い取り、それで相手を強打した。男が叩きのめされて戦意を失ったところで、僕はバットを握り締めながら血まみれになってその場から去ったのだった。

このバットは僕に精神の慰安のようなものを授けてくれた。井戸の底に座り込んでこのバットを抱え込んでいると、僕は不思議な能力を授かったみたいに、心が強化されるのを感じることができるのだ。

このバットはまた、小説の最後の暴力シーンの中でも出てくる。妻を求めて異次元空間に入り込んだ僕に、何者かが襲い掛かってくる。闇の中で姿の見えないこの敵に向かって僕はバットをふりあげ、思い切り相手を叩きのめし、そしてその男の頭をぐしゃぐしゃに破壊してしまうのである。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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