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人間の皮を剥ぐ:村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」


作者の村上春樹自身いろいろな場面でいっているように、「ねじまき鳥クロニクル」においては暴力が大きなテーマになっている。ほとんど全篇が暴力にまつわる挿話によって彩られているといってよい。その暴力は、戦争という形であらわれるメカニックな暴力から、個人と個人が顔を突き合わせて傷つけあうヒューマンな暴力まで、多重な性格を帯びている。この小説は暴力のショーケースのような感を呈しているのである。

こうした豊穣な暴力のイメージにきっかけを与えたのは、主人公夫妻が妻の実家から紹介された本田さんという占い師の話だった。本田さんはノモンハン事変の際に耳を負傷して聴力を失い、それがもとで退役し、日本に帰ってきて占いを業とするようになった人だ。この老人がどういうわけか、夫妻に向かってノモンハン事変の思い出ばかりを語った。

老人が語るノモンハン事変の思い出は、戦争の悲惨さとそれが個人に与える苦痛のすさまじさについてだった。

「水もない。食料もない。包帯もない。弾薬もない。あれはひどい戦争だった。後ろの偉いさんたちはどれだけ早くどこを占領するかということにしか興味がないのだ。補給のことなんか誰も考えてはおらんのだ。わしは三日間ほとんど水を飲まなかったことがある・・・あの時は本当に死んだほうがましだと思うた。世の中に喉が渇くことくらいつらいことはない。こんなに喉が渇くならいっそのこと撃たれて死んだほうがましだと思ったくらいだった。腹を撃たれた戦友たちが、水を求めて叫んでおる。気が狂ってしまったものもおった。あれはまさに生き地獄だった」

主人公はノモンハン事変のことなどそれまで何も知らなかったのだが、老人から繰り返し聞かされるうちに、戦争というものの持つ暴力性を「観念的に」理解できたような気になった。

だがそれはあくまでも観念のうえでの理解に過ぎない。暴力の暴力性を観念としては理解できるが、それが実際の痛みとして受け取られることはない。痛みとして受け取られるためには、暴力というイメージが現実の暴力性を帯びる必要がある。主人公はいずれ、この現実の暴力性を自分の身体を以て体験することになるだろう。

その前に主人公は、現実の暴力ではなく、かといって観念的だけでもなく、いわばその中間の暴力性を味わうことになる。

それは自分の身をもって体験した現実の暴力ではなく、他人の肉体によって受け止められた暴力ではあるが、受けている人間の苦痛に感情移入することを通じて、自分でも痛みを共有できるような暴力である。

そんな暴力について主人公に語ってくれたのは、本田さんの友人の間宮大尉という人だった。本田さんと間宮大尉はノモンハン事変に先行する時期に、極秘の任務を帯びて外蒙古にもぐりこんだことがあった。

それは山本という人物に同行して、山本の任務が首尾よく果たせるようにサポートするというものだった。ところが彼ら(山本と間宮中尉)は何かの失敗で、敵方によって捕らえられてしまう。山本はロシア人から日本軍側の機密をばらすように迫られる。それを山本は拒絶する。ロシア人は山本に暴力を加え、強制的に吐かせようとする。

そのときにロシア人が淡々という次の言葉は、暴力をはらんだ不気味な言葉として強烈なイメージを喚起する。

「彼らにとっては、優れた殺戮というのは、優れた料理と同じなのだ」とロシア人は言いました。「準備にかける時間が長ければ長いほど、その喜びもまた大きい。殺すだけなら鉄砲でズドンと撃てばいい。一瞬で終わってしまう。しかしそれではーー」彼は指の先でつるりとした顎をゆっくりと撫でました。「――面白くない」

ここでロシア人将校がいっているのは、暴力というのはきわめて人間的なものだということだ。暴力というものには、それを遂行するための様々な形式がある。しかし究極的に人間的な暴力とは、相手に耐え難い苦痛を与え、その苦痛に喜びを感ずることのできるような暴力である。そのような暴力は、このロシア人が言うように、さりげなく振るわれてはならない。それは周到に準備され、時間をかけて、しかも芸術的な美しさを以て、遂行されねばならない。

このロシア人将校が山本に加える暴力は、生きた人間の皮を剥ぐというショッキングなものである。

「男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上のほうから右腕の皮を剥いでいきました・・・彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかにロシア人将校の言ったように、それは芸術品といってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったなら、そこには痛みなんかないんじゃないかとさえ思えたことでしょう・・・皮剥ぎの将校はそれから左腕に移りました。同じことが繰り返されました。彼は両方の脚の皮を剥ぎ、性器と睾丸を切り取り、耳をそぎ落としました。それから頭の皮を剥ぎ、顔の皮を剥ぎ、やがて全部剥いでしまいました。山本は失神し、それからまた意識を取り直し、また失神しました。失神すると声が止み、意識が戻ると悲鳴が続きました。しかしその声もだんだん弱くなり、ついには消えてしまいました・・・あとには、皮をすっかり剥ぎ取られ、赤い血だらけの肉のかたまりになってしまった山本の死体が、ごろんと転がっているだけでした」

体中の皮を剥がれ肉の塊となった人間の身体がどのようなものか。普通の人間には想像もつくまい。

筆者はいつか知人の公衆衛生医に向かって、人間の皮を剥ぐとどのような状態が現出するかと聴いたことがある。ナチスのダッハウ収容所の所長婦人がユダヤ人の皮を剥いでハンドバッグを作ったという話を聴いて、こんなへんてこな質問をしたのだった。ところがその医師には答えられなかった。解剖でもそんなことはしないし、第一人間の想像力を超えているというのだ。

ともかくこの文章を読んだ読者は、だれでも身体的な反応をすることだろうと思う。内容の迫真性が想像力を激しく刺激するためだろうと思う。読者はまるで自分の皮がはがされていくような錯覚を覚えるに違いないのだ。

同じ暴力でも、たとえば戦車によって大勢の人間が轢き殺されたり、大砲の弾丸が大勢の人間をなぎ倒すような場合と、上のような一対一の関係の中で、一人が他の一人の身体に振るう暴力の場合とは、かなり違うイメージがある。

戦車や大砲を通じて下される暴力は抽象的な暴力になりがちなのに、ひとりの人間が他の人間に対して、自分の手を通して加える暴力は実に具体的な暴力である。その具体性が、身体が震え上がるような興奮を我々に強いるわけなのだろう。

ところで間宮中尉は数年後にこのロシア人と再会する。戦争捕虜として収容された先での強制労働の現場に、失脚して収容所送りとなったこのロシア人もいたのだ。その際に、間宮中尉にこのロシア人を射殺するチャンスがやってきた。そして間宮中尉はそのチャンスを実行した。彼はロシア人の銃を奪って、それでロシア人を撃つ機会を持ったのだ。

ロシア人は間宮中尉の前に自分の身体をさらした。死ぬ覚悟でだ。それに向かって間宮中尉は弾丸を二発発射した。それしか込められてはいなかったからだ。だが弾丸は的をはずれ、ロシア人は死ぬことはなかった。

おそらく間宮中尉は棍棒を握って、それでロシア人の頭を叩き割ったほうが良かったのかもしれない。そのほうが暴力の振るい方としてはずっと人間的だ。そうしていたなら、相手を確実に殺すことができたかもしれない。やはり拳銃という器物を介在させた暴力は抽象的な暴力なのだ。抽象的な暴力では人を殺す実感は得られない。作者はどうもそう主張しているように聞こえる。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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