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村上春樹作「ノルウェイの森」を読んで


「ノルウェイの森」を作者の村上春樹は「100パーセント恋愛小説」といっているが、筆者はこれを「青春小説」として読んだ。変った語り口で読者に語りかけてくる一人称形式の物語の進行が、「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」を思い起こさせたし、少年から青年へともがきながら成長していく過程がこの小説の最大のテーマだろうと感じたからだ。

「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」とはずいぶん違っているところもある。「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」は少年の今を語る現在進行形の物語なのに、この小説は30代後半の男が昔を思い出して語るという構成をとっている。だから、少年のみずみずしさは、それを語る壮年の男の意識のフィルターにかけられて、いささか分別臭い色合いを帯びてはいる。

そういうことを割り引いて考えても、この小説は青春小説として十分に成功している。そこが世界中の高い評価につながった理由だろう。

青春とは、すでに大人になってしまった人にとっても、今まさにそれを生きている人にとっても、不可思議で、狂おしくて、予感に満ちていて、つまりあらゆる可能性が渦巻いている世界だ。誰もが自分の青春をかけがいのない一度きりの機会として生きる。それをどう生きるかが、それを生きた人の人間としての在り方を方向付ける。

だから青春をどう生きたか、あるいはどう生きるべきか、そのテーマはあらゆる人にとって、尽きることのない関心事になる。偉大な文学はだから、多かれ少なかれ青春文学としての色合いをもつものなのだ。

青春時代にある人間はさまざまなことがらや課題に直面する。起きることがらや課題は人によってさまざまだ。この小説の主人公「僕」にとっては、愛と死が青春の課題として立ちふさがる。

愛とは彼の場合、女性との性愛という形をとる。少年は女性との間で恋愛ゲームのようなことを重ねながら、男女の関係をどう理解したらよいか、それが自分の人生にとってどのような糧となるのか、すこしずつ学んでいく。だが彼の愛の対象となった直子という少女が、彼の愛を素直に受け入れてくれない。どうも彼女は男との間でごく普通の恋愛関係を築くことができないようなのだ。

作者は明示的には語っていないが、読者が直子にレズビアンの匂いをかぎ取っても不思議ではないように物語を進行させていくのだ。もしレズビアンでないとしたら両性具有といってもよい。いずれにしても普通の女の子になり損ねた女の子という感じだ。

その直子は僕の友達の恋人だった。その恋人は高校二年生の時に自殺して死んでいた。なぜ彼が死んだのか、その理由は明示されないままだ。この小説では、自殺する人間がほかにも出てくる。直子も最後には自殺する。僕の先輩永沢さんの恋人ハツミさんも自殺する。これらの自殺は詳しくは語られていないが、外面的には共通する要因ももっている。それは青春時代を無事乗り切れなかった人々が、袋小路に迷い込んだ結果選択した切羽詰まった行為だったという側面だ。

物語は、僕と直子との出会いから始まる。少年とその幼馴染の少女が、進学先の東京で再会する、二人の共通の友達だったキズキ君は自殺していた。彼がなぜ自殺したのか、ふたりには深い事情が分からない。だがそれは二人にとって大きなわだかまりになっていた、二人はこのわだかまりを共有しながら、次第に関係を深め合っていく。

<そのようにして僕は十八から十九になった。日が昇り日が沈み、国旗が上ったり下がったりした。そして日曜日が来ると友達の恋人とデートした。>

二人の間ではどちらかというと直子の方がリードする側だ。彼女は僕と同い年だが、彼女の方が何か月か早く生まれ、何事についても大人びている。

<四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女の方が約七か月年上ということになる。直子が二十歳になるというのはなんとなく不思議な気がした。僕にしても直子にしても本当は十八と十九の間を行ったり来たりしている方が正しくないかという気がした。

こうして僕は直子を伴侶として意識するようになる。僕は直子と普通の恋人になりたいと思い、セックスもしたいと思う。直子もそれにこたえようとする。だがなかなか自然な恋人関係を築くことができない。二人は一度だけセックスするが、それは喜びにみちたというよりは、悲しみを含んだセックスだった。

<その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわからないだろうと思う。・・・僕はペニスを一番奥まで入れて、そのまま動かずにじっとして、彼女を長い間抱きしめていた。そして彼女が落ち着きをみせるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中で一番悲しげな声だった。>

初めて愛する女性とセックスをしたのに、こんな言い方があるだろうか。それほど直子に対する僕の感情は歪んだものだった。

直子が僕との間でセックスを楽しめないのは、彼女が男とのセックスに没頭できないからではないか。直子はキズキとの間でもセックスができなかった。自分の性器が男を迎える態勢にならないからだ。

「全然濡れなかったのよ・・・開かなかったの、まるで。だからすごく痛くって」直子はキズキとの間のことをこんな風に回想して、自分が普通の女でないことを、僕に向かって告白するのだ。

そんな彼女が、二十歳の誕生日に僕とセックスできたことは例外的なことだったのだ。でもそのことに純粋な喜びを感じることはできなかった。

彼女はそのことをいつも負い目に感じていた。キズキが自殺したのは、直子との間でセックスできないことに絶望したのではないか、そんな風にも受け取れるのだ。そのことを直子もうすうすと感じている。彼女がついに心の病に追い込まれるのは、そのことが心にとってあまりにも大きな負担になったからではないか。

<「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔をあげていった。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべき時に代価を支払わなったから、そのつけが今回ってきているのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。」>

そんな直子を僕は京都の精神病院に訪ねていき、なんとか彼女との間で前向きに生きていくきっかけをつかめないかと模索するが、ついにその努力は報われることはなかった。直子は自分の負い目を自分一人だけで受け止めて自殺してしまうのだ。

直子の死が、愛と死からなるこの物語の円環運動を完結させる。そこで主人公の僕は次のようにつぶやくのだ。

<死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。>

恋愛物語としても、青春物語としても、いささか深刻すぎるといえなくもないが、その深刻さがこの小説に深い陰影をもたらしてもいるようだ。



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